J-AIRはJACのプロペラ機を食う

以前、JAL(J-AIR)がE170・E190をたくさん注文したという話をちらっと取り上げた。

伊丹空港の近い将来と遠い将来

MRJ導入までのつなぎという名目でMRJの注文と一緒に発表されたのだが、

老朽化したCRJ200と初期に導入したE170の置き換えにしては数が多いことが指摘されており、

これはJACのプロペラ機の置き換えも考えているのでは? と思っていたら、今年7月以降、本当に置き換えられるようで。


JALグループで100人乗り以下の小型機を専門に飛ばすコミューター航空会社は4社ある。

まず、さっき出てきたJ-AIR、この会社はリージョナルジェット専門の航空会社である。

4社の中で唯一、プロペラ機専門ではなくジェット機専門で、JALの補完色の強い会社である。

というかJAL便名だからそこまで大きな差があるわけではない。

現在は伊丹空港を本拠地に、伊丹空港発着路線の大半、その他、福岡・新千歳から各地への路線にも使われている。

次に、日本エアコミューター(JAC)、もとはJAS傘下で、JASの前身の東亜国内航空と鹿児島県・奄美群島の市町村の共同出資でできた会社である。

だから奄美路線がメインなのだが、そうはいいつつもJAS時代から奄美路線以外でもJASからの付け替えで担当することが多く、

JAL・JASの合併後も奄美路線以外も担当している。驚くべきことに新千歳発着便を担当していた時期まであったよう。

あと2つはかなり地域色が強い会社で、1つが琉球エアコミューター(RAC)、沖縄県内または沖縄県~奄美群島の路線を担当している。

この会社は南西航空、現在の日本トランスオーシャン航空(JTA)の子会社として生まれ、JTAのプロペラ部門の意味合いもありそう。

もう1つが北海道エアシステム(HAC)で、一時JAL傘下から外れていたが、また戻っている。


というわけで、J-AIRとJACはできた経緯こそ全く違うが、広域で100人乗り以下の小型機を飛ばしている点では共通している。

ただし、ジェット機とプロペラ機という役割分担は明確だ。

そのためこの両社の間での路線付け替えは過去にも行われていたはずで、

実際、かつてJACの担当も多かった伊丹空港発着路線は、現在、J-AIRで埋め尽くされ、JACは但馬・出雲・隠岐・屋久島の各路線で残るのみ。

J-AIRのE170・E190買い増しでさらにこの傾向が強まるようだ。

7月以降、福岡~徳島が全便JAC担当からJ-AIR担当に、福岡~宮崎がJ-AIR・JACで分担しているところ、全便がJ-AIR担当になる。

他にも置き換えられる路線はあるんじゃないかなという気はする。


JACはDHC8-Q400(74人乗り)とSAAB340B(38人乗り)の2つの機材を保有している。

このうちSAAB340BについてはATR42(48人乗り)に置き換えることが決まっている。

一方でDHC8-Q400については特に今後の方針は示されていない、といってもこっちは今すぐ考える必要はないというのもあるのだろうが。

ただ、プロペラ機とジェット機の差はあるが、客席数で言えばJ-AIRがたくさん持っているE170が76人乗りなので大差ない。

だから、JACからJ-AIRへの路線付け替えをやっていけば、JACはQ400の使用数が減り、Q400の置き換えは考えなくてよくなる。

ただし、プロペラ機はジェット機に比べ短い滑走路でも離陸できるメリットがあるので、Q400の路線をそのままE170に置き換えられるとは限らない。

実態としては問題ない路線が大半だろうから、あまり問題は無いような気はするけど。


JAL・JALエクスプレス(JEX、現在はJALに合併済)から路線移管を受け拡大してきたJ-AIRだが、

今はJACからの路線移管という形でまた拡大するようである。

それだけリージョナルジェットの使い勝手がよいということなのだろう。

ほどよいサイズでジェット機というのはやっぱり便利なんだろうな。そんなことをこれまでのJ-AIRの歴史から感じている。

3つ連なった東○○市

多磨全生園があるのは東村山市だが、500mほど南に進むと東久留米市に入る。

一方、東村山市の西隣にあるのは東大和市、ということで3つの 東○○市 が連なっている。

どの市がどんな市かよくわかってないのもあって、紛らわしいことこの上ない。

東村山市、東久留米市、東大和市はそれぞれどういう経緯でこの名前になったのか。

ちょっと調べてみた。


この中で東村山市は市になる以前より東村山町ということで、最も古くからこの名前を使っていた。

命名の理由は村山郷の東側にあったからだそう。

1889年の町村制施行時に東村山村と命名されたときからかれこれ120年以上使われている。

村山郷というのは狭山丘陵一帯の広域地名だったそうで、武蔵村山市(市になる以前は村山町)の名前のルーツも同じだ。

東村山村の成立から合併も名前変更もなく、1964年に市となり東村山市となった。


東久留米市と東大和市はいずれも市になるときに東を付けている。

東久留米市は1970年に市になる以前は久留米町だった。1889年の町村制施行時の久留米村成立より使われている名前だ。

順当に行けば久留米町が市になれば 久留米市 となるところなのだが、

これでは福岡県久留米市(1889年の成立当初より市だった)と名前がかぶってしまうので対策が必要だった。

市の名前というのは原則として被らないようにすることになっており(例外もあるが)、町が市になるときに名称変更をおこなった市は多い。

久留米町の久留米という地名は相当に歴史ある地名なのだが、基本的には早い者勝ちなのだ。

そこで対策として東を付けることにしたわけである。すでに町内に 東久留米駅 があったことなどもあって、この案はすんなりと受け入れられたようである。


東大和市も事情としてはほぼ同じである。

市になる以前は大和町だったが、これは1919年の6つの村が合併したときに名付けられた名前で、

特に以前の村の名前から引き継いだわけではなく、なんとなく縁起がいいから大和村と命名したそうだ。

1970年、市になることになったのだが、このときにはすでに神奈川県大和市(1959年より市)が存在していた。

ちなみに大和市ももとはといえば合併時に元の地名を引き継がず、大和村と名付けたことに由来しているので、似たようなものである。

このとき、神奈川県大和市より東にあり、「東」が東京都に通じるという理由で、東大和市と改めたという経緯があるようだ。

僕にとっては大和市も東大和市もあまりなじみはないのだが、大和といわれると大和国、すなわち奈良県との関係性を疑ってしまうが、

由来からすると特に大和国とは関係ないようだ。


なお、市の名前は原則として重複しないようにという話があるが、これが特に問題になったのは1954年ごろからのことのよう。

そのきっかけというのは東京都府中市と広島県府中市の重複だったそうだ。

いずれも府中町から市への移行だったのだが、この2つが噛み合ってしまい、これは問題だとなったよう。

以後、原則として市の名前は重複しないようにということになったのである。

改名までは紛らわしかったのでは? というのもいくつかあって、その1つが北海道広島町かな。

広島県からの移住者が住んだから広島村と名付けられ、以後、札幌都市圏の発展に伴い人口増加を続けてきた。

1996年に市になるにあたって北広島市と改められたが、もともと北広島駅があったところから決まったのだとか。

これがそのまま広島市になってたらびっくりだっただろうな。広島市あたりからの移住者の村が広島市になっては話がわかりにくい。


ただし、原則としてはそうなのだが2006年に伊達町ほかの合併によって成立した福島県伊達市は北海道伊達市(1972年から市)と重複するのに認められた。

これは北海道伊達市の伊達のルーツももとは福島県にあったこともあって、問題なしとのお墨付きを得ることができたからこそのよう。

1954年には市の名前の重複は問題だという意見も強かったのだろうが、

2000年代ともなれば郵便番号を書くから郵便に書くあて先も市町村名から書けば十分になっていたから問題にならなかったのもあるだろう。


東大和市はともかく、東松山市も東久留米市も歴史ある地名を生かした結果、この名前になったわけである。

なお、関東地方では他に 埼玉県東松山市 も東から始まる市である。

これも松山町が市になるとき、愛媛県松山市との重複が問題となり、東にある松山だからということでこの命名になったとのこと。

関東地方では旧国名をつけて重複を回避した例はさほど多くなく、東京都武蔵村山市ぐらいしかない。

逆に関西は多すぎるよな。大和郡山市、大和高田市、河内長野市、泉大津市、泉佐野市と。

そのあたりも流行があるんですかね。

ハンセン病資料館で考える

今日は自転車で出かけていたのだが、その前に地図でルートの近所を調べていたときのこと、

なんか低層の建物がまばらに建ち並ぶ不思議な地帯があった。

なんだこれは? と思って近所に目を向けてみると「ハンセン病資料館」という建物が書いてある。

これは国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病療養所の1つですね。

そう言われればなるほど納得である。


東村山市の所沢街道沿い、生い茂った木に囲まれた中に多磨全生園はある。

入居者はすべからず高齢者、老人注意の標識が周辺の道路に付けられている。

今は周辺を散歩することもあるんかね。

そんな多磨全生園の外周を走って行くと、ハンセン病資料館がある。

入場は無料、月曜日以外は基本的に開館しているよう。

思いの外、広い建物である。


ハンセン病の歴史はなにかと見聞きする機会があるが、かつて隔離政策が行われていたという歴史がある。

多磨全生園を初めとする国立療養所はかつての隔離政策の名残を表す施設で、今も入居者は残っている。

ただ、今からして見ると、なぜこういう施設ができたのか? なぜ未だに残っているのか? という事情はよくわからないものである。

そのあたりの事情を展示を通じて考えることができるようになっている。


そもそもハンセン病とはなんぞやという話だが、らい菌による感染症で、今は抗生物質の類で治療が行うことができる。

ただ、かつてはろくな治療法がなく、不治の病という認識だった。かといってそうそう死ぬような病気でもなかったのだが。

問題は症状が外見に出ること、遺伝性であるという誤解とか、そういうところで社会から追われる存在になってしまったことで、

国立療養所ができる以前のらい病(当時はそう呼ばれていた)の患者には浮浪者になる人が多くて、これは問題だという話になっていた。

資料館の玄関に四国遍路に出るらい病患者の像があったけど、社会から追われた患者の1つの選択肢だったようだ。

ともあれ、これはよろしくないということで明治時代に民間の療養施設ができはじめ、それに次いで国立療養所が作られていった。

人手不足などの問題はあったものの、行くところがなく浮浪者になっていた患者に居場所を与えることができるようになってきたわけである。

一応は当時の水準で考えられる治療が施されていたそう。


と、ここまで見ればなかなか理にかなった施設に見えるのだが、実情としてはいろいろ問題があったそう。

まず、当初は行き場のない患者のための施設という位置づけだったのが、強制収容に移り変わって行ってしまったこと。

確かに感染症には違いないのだが、実はそこまで感染しやすかったわけでもないらしい。今だからこそ言えることなのかもしれないが。

栄養状況が悪かった時代に子供が感染しやすかったということで、今の日本ではらい菌があったところでまず感染しないだろうと。

ただ、当時の理解としては、患者を完全に隔離できれば感染の広がりは抑えられるだろうという考えだったようだ。

隔離とともに断種、すなわち子供を作ってはならないということになっていたのも、いまからすればひどい話である。

患者の子供が感染しやすかったということで一見正しそうに見えたのかも知れない。遺伝病という誤解もあったのもこのあたりの事情があるのだろう。


そして、もう1つ問題だったのが、療養所が患者の労働によって支えられていたことである。

いや、これ自体は社会から切り離されてどうにも立ち位置がない患者にとってやりがいを与えるものという点ではよかったのだが、

実はハンセン病という病気は知覚麻痺を引き起こす病気で、作業中にケガをしても気づくことができないなどの問題があったのだ。

ケガに気づかないと手当を受けることもしないわけで、これで足を失う人もいたとか。

人手不足がゆえに十分な支援が受けられないばかりか、それによってハンセン病以外のところで苦しむ羽目になってしまったのである。

ハンセン病自体で死ぬ人はそうそういなかったが、合併症をいかに防ぐか。そこが本当は大切だったのだが、そこまで考慮できていなかったというわけだ。


そんな状況だったのだが、太平洋戦争後、まともな治療法が確立され、ハンセン病は不治の病から治せる病気になった。

これは画期的なことで、国立療養所でも治療が行われ、だんだんと社会復帰できる人も出始めてきた。

というわけなのだが、実際のところ、不治の病が急に治せる病気になったら大変だったそう。

まず社会復帰しようにも過去の事情もあってなかなか偏見が取れなかったこと。

社会復帰を想定して療養所内に高校が作られるなどいう努力もあったようだが、なかなか簡単ではなかったようだ。

ましてや親戚からも見放されてしまったような人にとっては社会復帰しようもないと療養所を出ても戻ってきてしまうこともあったとか。

現在も国立療養所が存続していることにはそういう背景がある。

あと、治せる病気になっても隔離政策は継続せざるを得なかったというのもある。

当初は治療薬が注射薬だったこともあって療養所での入院治療を想定していたので、感染発見→療養所での治療 というフローは変わらなかった。

飲み薬ができて外来で治療できても、当初は療養所以外での治療体制が整ってなかったとか。


そんなハンセン病だが、実は1996年まで らい予防法 という法律があった。

これは隔離政策の根拠となっていた法律で、1907年制定の癩予防法を継承して、1953年に制定された法律である。

1953年にはハンセン病は治せる病気にはなっていたが、療養所への収容は治療のため必要だという理解で隔離規定は残されている。

そんな法律が1996年まで残っていたというのは驚くべきことだが、条文を見る限りでは運用でどうにでもなったんだろうな。

法律として存在していても使われることはない規定となって久しかったのではないだろうか。

療養所の環境改善の方が優先度が高く、法律の廃止は後回しになってしまったようである。

下手にこの法律をなくしてしまうと国立療養所が存在する根拠すらなくなってしまうという事情もあったようだ。

とはいえこの時代までこんな法律が残り続けたのはあきらかに落ち度があるので、政府も国会も謝罪広告を出すことになってしまったが。


日本でのハンセン病の歴史を見てみたわけだが、予想以上に簡単ではない事情が見えた。

上に書いたことは、当時の理解として全く間違っているとまでは言えないようにも思えることが多い。

ただし、当時の水準にしても落ち度があったと言わざるを得ないことも多いのだが。

今に比べると科学的な考察をするための道具が足りなかったというのもあるのかもしれない。

さらにハンセン病をとりまく状況の変化にうまく対応できなかったということも問題を拡大させたような気がする。

1953年の新法制定時の時点で治療に隔離は必要ないのでは? という話もあったようなのだが、

当時、療養所以外に患者を受け入れる施設もなかったこともあって手を付けなかったそう。

今にしてみればここで苦労しておくべきだったのだろう。


なお、現在の国立療養所の入所者はハンセン病の治療を受けた人で、もはやハンセン病患者ではない。

なので回復者という言葉を使うそうだ。治療法確立後のことを書いてある展示では多く見かけた言葉だ。

入所者の高齢化はかなり進んでおり、新たな入所者は想定されないので、入所者は減る一方である。

継続入所を希望する回復者の最後の1人が亡くなるまではつぶすにつぶせないのだが、どういう形で終わりを迎えるんでしょうね?

現行法である ハンセン病問題の解決の促進に関する法律 では国立療養所の施設をハンセン病回復者以外のために使うことが認められている。

多磨全生園では敷地の一角に保育園が作られたが、これは地域住民の役にも立つし、入所者にとってもうれしいことらしい。

さてはてどうなるのやら。けど多磨全生園がどうなろうともハンセン病資料館はここに残り続けることだけは確かかなと。

8のつく日に買いだめ

今日は28日、8の付く日なのでイトーヨーカドーで買い物するには適した日だ。

というわけで袋片手に買い物に出かけたら、買いすぎてパンパンになってしまった。

しかも一部入りきらず、手でつかんで自転車まで運ぶ羽目に。

ちょっと欲張りすぎた。


今月は8日・18日・28日といずれもイトーヨーカドーに買い物に行っている。

8日・28日は土日にかかっていて、18日は休暇だったから。(カーペットを掃除する)

特に18日は水曜日に買い物に行くと言うことで特異だった。

14日・15日は珍しくもイトーヨーカドーに買い物に行かない週末だった。

前の8日に多めに買った分があったので、近所の小さなスーパーで少し買い足すだけで十分だった。

22日はイトーヨーカドーに行ったが、こんなに買い物が少ないのはなかなかなかった。


そして今日はその反動だか知らんけど、やたらと買い物が多かった。

調味料とか常備食の類で買い足しが多かったのと、あれこれと魚を買ったのが原因で、

それ以外はそうでもないと思うが、食料品売り場だけでこんなに買うか? ってほどの金額だった。

これだけ買うと5%OFFの効果も相当、といっても数百円の話だけど。

nanacoの残高もスッカラカンになってしまった。

来月になったらチャージしないと。


食費は他の費目に比べれば月ごとの差が小さいので比較するとそれなりに意味があるものが見えてくる。

今月は普段より多めで推移してるが、連休中の旅行で外食費がかさんだことが主な影響だろう。

ただ、生鮮品の金額も普段よりやや多めということで、ここぞとばかりに生鮮品も買い込んでたようで。

こちらはあまり気に掛けるほどの差ではないけど。

Internet Explorerの難点

定期的に会社のニュースがE-mailで配信されていて、仕事中に読むわけだ。

いろいろ書かれているけど、けっこう話題として多いのが新製品発表の話。

自分が関わってた製品とか話題になってる製品の話なら、「やっと発表されたのか」という感想だけど、

そういう流れを知らない製品ならば「これの新製品出るのか」とこの段階で知ることもある。


いずれにしてもどういう形で対外的に発表されているのかというのは興味があるので、

貼られているURLをクリックして、会社のWebサイトのプレスリリースを開いて見ようとするのだが……

コンピュータが固まってしまった。しばらくしたら復活したけど。原因はInternet Explorerが一瞬固まってしまったから。

この会社のWebサイト、とりわけプレスリリースのページを開くと高確率でWindowsごと固まる。

IEが固まるのはよくあることだけど、Windows全体が固まってしまうほどはあまりない気がする。


会社のコンピュータではWindows 7標準のInternet ExplorerをWebブラウザとして使うことになっている。

標準だからってのが大きな理由だろうけど、一見そんなに悪い選択肢ではない。

かつてのIEがWeb標準への対応が不十分だったが、IE8以降であれば特に問題にならないと考えている。

ところがどういうわけか知らんが、Webサイトを開いたときにフリーズすることの多いこと多いこと。

JavaScriptだとかの実行速度が遅いのか、HTMLやCSSの解釈に時間がかかるのか、特定のWebサイトで必ず固まるというのがある。

パフォーマンス面ではIEは難があるようだ。


それで仕事の能率が著しく落ちるということもないので、そんなもんかーと思って放ったらかしにしてるけど、

なんというか、なんでこのWebサイトが重いんだ? と思ってしまうよね。

Webブラウザは意外とリソースを食う存在だということも実感はあるのだが、

今まで経験してきた、Firefoxが重くなるシチュエーション、Chromeが重くなるシチュエーションとはまた違う挙動なんでね。

今まで多少は使えども、常に使い込むことのなかったIEを使い込むとこういうことが見えてくるのだ。

CRC32はかなり優秀

CRC、データの誤りを検査するために生成される符号である。

身近なところだとZIP形式のアーカイブのインデックス部分にはファイル名とともに32ビットのCRCが含まれていて、

アーカイブを解凍して得られたデータのCRCとインデックスのCRCを比較して、一致しなければアーカイブが壊れていると教えてくれると。


CRCは誤り検出の符号としては検出率が高いと思われている。

誤り検出の方法としてパリティビットを付加するという方法があるが、

1ビットのパリティビットでは1ビットの誤りは検知できるが、2ビット以上の誤りは見のがす可能性がある。

チェックサムということで一連のデータの各ワードの総和を使う方法があるが、

データの順番が変わっても同じ値になるとか、偶然同じ値になるような誤りが発生する可能性は低くない。

それに比べればCRCは誤り検出率が高く、計算アルゴリズムもそんなに大変ではない。(単純なパリティやチェックサムよりは複雑だが)

ただし、MD5とかSHA1のようなハッシュ関数のように改ざん検出だとかに使えるほど衝突しにくいわけではない。

あくまでも偶然、データに誤りが発生したのを検出するためのものである。


CRCというのは一連のデータに対するわり算の答えを表している。

よく使われるCRC32では2進数で 100000100110000010001110110110111 でデータを割ったときの余りとなっているとのこと。

ソフトウェアで実装するときにはこういう方法が使われることが多いそうで。

CRC32テーブルで計算 (プログラミングのメモ帳)

テーブルに0x00~0xFFに対するCRC32の計算値を格納しておいて、それをうまく使うと簡単に計算できるそう。

確かにこれなら使いやすそうですね。


CRC32はこのように優秀な誤り検査符号なのだが、貧弱な誤り検出符号にまつわるこんなエピソードがある。

システムのある部分では8ビットチェックサムで検査を行うようになっていたよう。

8ビット単位でデータを足し算し続けるだけという簡単な仕組みだから採用されていたんだろうな。

ここにあるデータと8ビットチェックサムが偶然一致してしまうデータを送り込むとバグが発生した。

当初、原因が分からず、調査にはだいぶ時間がかかったようだが、これを発見した人は「君は1/256の確率を引いてしまったのだ」と教えてくれた。

どうも横着してチェックサムに差があること=データが変化したことと解釈する仕組みになっていたらしく、

それがゆえにチェックサムが偶然一致するデータを送ると想定外の動きをしてしまったそうで。

上の例は誤り検出符号の使い方としてそもそも間違えていて、2つのデータが違うことを検出するのに使うのは正しい使い方とは言えない。

よりによってそれが8ビットしかなかったので、1/256の確率でこの問題が顕在化してしまったわけだ。簡単には発生しないが、起こせなくもなかったと。

その後、全データなめて変化したことを検出する仕組みに変えたとのこと。それが正しい。


CRC32は各所で多用されていて、ここもCRC32なのかと驚くこともしばしば。

職場でもよく使ってるのよ。ここはCRC32付けてるから、データが狂ったのは発見できると考えてOKとか、そういう話も多い。

ほどよい誤り検査符号なんでしょうね。そんなに難しくもなく、長くもなく、それで検出能力は十分高い。ありがたいものだ。

サミット会場の脇支え

明日、あさってで志摩市の賢島でサミットが行われる。

とりあえず順調に準備は進んでいるのかな?

もうすでに鵜方~賢島の近鉄電車が運休になっていたりするようだけど。


会場は志摩観光ホテル、国内外のVIPがあれこれと滞在したホテルであり、首脳会談の場所としては実にふさわしい。

本州とは陸繋がりながら、橋2本を封鎖してセキュリティチェックすればなんとかなりそう。

海に囲まれてるのは心配だけど、定期船を含めて出入りできないように警備しているよう。

定期船の利用者にとっては災難だけどね。もともと駅前出てすぐ船着き場なのに、

臨時移設先は鵜方からシャトルタクシーで30分かかるところだそうで、1週間ほどずいぶん不便だ。

と、多少の犠牲はあるものの、サミットの会場としてはかなり好条件の会場である。


ニュースでサミットの話が出てくるとき「伊勢市に設けられた国際メディアセンターでは――」ということを聞く。

伊勢市で国際メディアセンターってことはサンアリーナだろうなと思ったら当たってた。

国際メディアセンター(IMC)と関連施設概要 (伊勢志摩サミット)

サンアリーナというと正月・連休などで伊勢神宮への参拝者が集中する時期にP&R駐車場として使われてる印象が強いが。

ここが世界各地からやってきたメディアの拠点となるわけだが、賢島まではずいぶん離れている。

1時間ぐらいかかるんじゃないかなぁ。

この遠さを埋めるために志摩市内にサブメディアセンター1(SMC1)とサブメディアセンター2(SMC2)が設けられると書かれている。

SMC1は賢島付近にあって、賢島の取材のための拠点と想定されているが、入れる人は限られ、セキュリティチェックも厳しいと書かれている。

SMC2は志摩市内にあって首脳会見の場所に使われ、多くの人が入れる代わり、賢島の外にあると。


このSMC1とSMC2だが、具体的にはSMC1は賢島宝生苑、SMC2は伊勢志摩ロイヤルホテルらしい。

伊勢志摩サミット 最新情報 2016年サミット開催地 (“メディア・クローズアップ”放送・通信・ICT・メディア最新情報-国際メディアサービスシステム研究所)

賢島宝生苑も志摩観光ホテルと同じく賢島内にあるホテルで、どっちも近鉄傘下のホテルだったりする。

志摩観光ホテルとは別に大きなホテルがあるということで、随行員だかの宿泊場所にも使われるそうで、

狭い島にも会場とは別にこういう場所が確保できるのは好都合だったんだろうと思う。

伊勢志摩ロイヤルホテルは志摩スペイン村の近くだから、賢島からは意外と遠い。

国際メディアセンターからアクセスしやすくて、賢島から行っても割に合うぐらいの広いところということで選ばれたのかな?

ちょっと不便な気はするけど、そこは意図的なんでしょうね。


志摩観光ホテルがサミットの会場だと聞いて、そりゃサミットの会場に好適だと納得したが、

その脇を支える各種施設も伊勢志摩地域には一通り揃っていたようだ。

大規模なホテルはたくさんあるのは確かだし、サンアリーナは志摩からは外れるが、収容力は大きな施設だ。

空港もセントレアがあって、参加する各国首脳たちはヘリコプターでのアクセスを想定とのこと。

陸路だと伊勢湾をぐるっと回るので意外と時間がかかるが、それでも国際空港から普通にアクセスできるなら十分でしょう。

関空からもそんなにアクセスは悪くないので、そちらを利用しているメディアもいるんじゃないかな。


この手の会議ではリゾート地が会場になることは多いけど、やっぱりいろいろ好都合なんでしょうね。

伊勢志摩でサミットを開催すると上に書いたようなメリットがあったわけだが、

リゾート地というのは多かれ少なかれ上に書いたような性質があるんでしょうね。

とりあえず人払いはしやすそうなことは間違いない。

商品がどこにあるかわからない

ティッシュペーパーが切れそうなことに気づかず、買い足してない中、

昨日、ティッシュペーパーが急に切れて、こりゃ困った。

というわけで今日、帰ってきてから近所の小さなスーパーに買いに行った。


ついでに他の食料品も買うぞ、というわけでいくつかカゴに入れ、

日用品を陳列した棚に行くと、ティッシュペーパー、キッチンペーパー、トイレットペーパーという定番の商品がない。

そのくせしてペットシートは置いてあるって、そりゃおかしくないかと思ったのだが、見あたらないものは仕方ない。

目当てのものは見つからなかったが、カゴの中のものをレジに持っていった。

それで店の外に出たら、そこにティッシュペーパーもキッチンペーパーも置いてあった。

かさばるからか、需要が高いからか店外に陳列していたようだ。

というわけで、これを再びレジに持っていって、事なきを得た。


このスーパーだとなにしろ小さな店だから、一見探してもないものは本当にないのだと納得してしまうのだが、

イトーヨーカドーほどの大きなスーパーともなれば、どこの売り場にあるか探すのも大変だ。

食料品は必ず食料品フロアにあるから、困らないのだが、それ以外は普段買わないものだと途端に困る。

食料品・衣料品以外の商品の陳列は 生活用品フロア、文具・おもちゃフロア、薬店フロア とだいたい3分されるのだが、

このどのフロアにあるのかわからないと、フロアをまたいで右往左往するはめになる。


同じタイプの商品が複数のフロアに置かれていることはある。

例えば歯ブラシは生活用品フロアにも薬店フロアにも置かれているが、それぞれ置いている商品に違いがあったはず。

そういうのがあるので、ズバリこれと思っている商品があるとけっこう苦しむこともある。

どういう基準なのかはよくわからないんだけどね。

あと、僕はあまりアテにしていないんだけど、食料品フロアにも食料品以外の商品が多少置かれている。

ただ、品揃えがかなり限られるので、だいたい思った商品にありつけないものである。

この前の日曜日には、排水溝のネットだけ買うのに何階も離れた生活用品フロアに行ったが、それが結局早いと。


どこの店でもなんとなく商品を分類して並べてるのはわかるのだが、

自分が最初に想像した場所にあるかというと、なかなかうまくいかないものである。

イトーヨーカドーは未だにつかみ切れてないところがあるなぁ。普段よく買うものはわかるんだけどね。

小さなスーパーなら掌握し切れているつもりだったのだが、店外というのは想定外だった。

こりゃ厳しい。

宇宙から絶えず襲ってくるもの

昨日、国立科学博物館の地下3階にある霧箱を見て、宇宙からいろいろ飛んできてるんだなと思った。

霧箱というのは宇宙線などの放射線を観測するための実験装置で、放射線が通ったところに白い軌跡ができる。

過冷却状態の水蒸気を満たした空間に、放射線が通ると、その刺激でそこで水が液体に戻って、軌跡が見えるんだと。

宇宙からいろいろ飛んできてるんだよ、と見せるための道具ですね。


宇宙線でコンピュータが故障することがあるという話はご存じだろうか。

宇宙線がメモリの値を書き換えてしまうことがあるそうだ。

確率はすごく低いのだが、再起動をかければ復活するというのも特徴である。

もしかするとPCがブルースクリーンだかで落ちてしまうのも宇宙線のせいかもしれない。そういう可能性もなくはない。

ログなどをたどっても原因不明で、再起動かけて復活するような故障は、それは宇宙線のせいにしてしまうのである。

いい加減な話だが、そういうよくわからない故障が世の中にはあるという話である。


霧箱を見るとけっこうビュンビュンと宇宙線が飛んできてるなと思うわけだが、

これだけ飛んできてても実際に壊れるかというとなんとも。

まず当たり所が問題だよね。小さな半導体チップの、その中の記憶素子の部分にぶつかって、

それでなおかつ記憶している値の0と1を入れ替えてしまうようなことにならないといけない。

ただし半導体プロセスの微細化で値を入れ替えてしまう確率自体は上がりつつあるらしい。


以前、「実際、宇宙線で壊れるもんなんですか?」とある人に聞いたら、

「君は宇宙天気予報を見てないのか。宇宙の天気は荒れ模様だ」とそんな具合に茶化されたのだった。

ちなみに宇宙天気予報ってやつは確かにあって、宇宙活動の人工衛星への影響を予測するのに使うのかな?

宇宙天気情報センター (NICT)

こんなの見たところでどうすんだって話だけど。

けど宇宙空間を飛び回る人工衛星とか、そこまでいかずとも飛行機とかだと影響は大きく出るみたいね。


ちなみに対策方法はあって、それがECC付きメモリを使うことなんだと。

ECCというのは冗長ビットを増やして1ビットとかのメモリの誤りを訂正できるようにする技術で、

これがあれば運悪く記憶したデータが書き換わってしまっても修復できると。

ただ、ECC付きのメモリは値段が高いんだよね。

主にサーバーなどで使われるという用途の違いが大きいんだろうな。

PCではECCメモリは使わない前提で、サーバーではECCメモリは使う前提で設計されているので、どちらか選べるケースはさほどない。

冗長ビットの分、記憶素子を増やさないといけないという事情もあるんだと思うけど。

PCを宇宙線から守るのは難しそうだが、世の中のサーバーたちはECC付きメモリでかなり守られているということだ。

巨大な自然史の博物館

今日は上野公園に行っていた。目的地はいつもの東京国立博物館ではなく、国立科学博物館だ。

前々から気になってたんだけど、なかなか足を運ぶこともできず、やっとこさ行ってみた。


実は3年ちょっと前まで、僕はこの国立科学博物館にタダで入れたのだ。

アクセス・入館案内 (国立科学博物館)

一般・大学生の入館料は620円、今日もこの金額払って入ったのだが、

「高校生(高等専門学校生含む)以下」は入場無料となっている。高専生ならば4・5年でも入場無料とのこと。

これだけでもなかなかのものだが、専攻科生も高専生には違いないので入場無料らしい。

だから2013年3月まで僕はここに無料で入れたのだ。

だから行きたかったんだけど、現実問題として東京に行くことすら少なかったし、あったとしても時間を取れることはなかった。


この国立科学博物館は東京国立博物館(分離当時は帝室博物館)から自然科学分野の所蔵品を引き継いで独立した経緯がある。

道路挟んで隣り合った2つの博物館はもともと1つの博物館だったのだ。

そういうコレクションを基礎にした自然科学系の博物館ってなかなかないような気がするんだよね。

ということで気になってはいた。


国立科学博物館は2つの建物でできている。日本館と地球館、日本館は表から見える古い建物で、地球館はその奥にある新しい建物。

日本館で取り上げられているのは日本の動物・植物・地質についての展示が行われている。

動物の展示では大量の剥製が並べられており、植物の展示では押し花のようにして保存されている大量の植物標本、地質の展示では大量の鉱物が、

なんというかすさまじいコレクションだなと思った。

そして思い出した。そうだ、ここって 大阪の長居公園にある大阪市立自然史博物館 と同種の博物館だ。

太古の時代から現在まで大阪を巡る

自然史という言葉もようわからん言葉だが(そもそもNatural Historyの直訳)、自然物を収集・分類・展示するタイプの博物館をこう言う。

国立科学博物館は日本各地で収集活動を行っているのか、標本のあまりの数の多さに圧倒されたが、話の組み立てとしてはそんなに違いがあるわけではない。


引き続き地球館へ。地球館の展示内容はフロアによっていろいろでなかなかわかりにくい気がした。

3階・1階・地下1階・地下2階が自然史関係、2階と地下3階が科学技術や原理の展示ということで、なんで飛び飛びなんだか。

自然史関係の展示は地球館というからには日本に限らず世界の自然史の流れ、特に恐竜の時代と人類の起こりの展示が集約されているという印象だった。

新しい展示館ということもあってなかなか凝った作りの展示物が多かったような気がした。

地下3階は主に原理の展示が並んでいるわけだが、科学者の展示も行われている。著名な科学者の送った手紙とかFAXとかそんなものもあった。

ここにあるのはほとんどレプリカだけど、現物はこの博物館のコレクションとして所蔵されているということでもある。


すごい博物館だとは思ったのだが、残念な事が2つほど。

1つは閉館時間が早いこと。16時半に「あと30分で全館閉館」と放送が流れたときにはびっくりした。

都心立地の博物館でそんなに早く閉まるかと。金曜だけ20時閉館らしいんだけど、裏返せば土日でも17時閉館ということになる。

あと1時間長いだけでも違うんだけどな。(ちなみに東博は4月~9月の土日はベタで1時間延長して18時までにしている)

昼過ぎに来て見始めたんだけど、なんとか時間内に周り切れたからよかったが。

全部みたいなら午前中か午後一番がいいかもね。特別展も見るつもりならなおさら。


もう1つ残念だったのが、展示物があるのはいいけど、説明不足に過ぎるのではいかということ。

自然史関係の展示物の見所というのは僕はよくわかってないもんで、教えてもらって「なるほどなぁ」と思うところなのだが、

所々、ろくに説明もなく展示物が置かれているだけというのがあって、どこが見所なんだかと悩んでしまった。

自然原理・科学技術の展示となると体験的な展示も多いわけだが、これも説明不足なところが多かったような気がする。

子供が「これどうやってやればいいんだ」みたいな反応をしているのを、大人も一緒に悩むみたいな光景を見て、そりゃいかんだろと。

展示が多すぎて説明が間に合ってないのかな? 真面目に説明したらこんなに展示物並べられないぞと思ったが。


ちなみに国立科学博物館は、上野公園の展示施設だけでなく、つくばの研究施設と植物園、旧白金御料地の附属自然教育園も含まれる。

研究部門の活動は展示の中でも紹介されていたが、自然史で肝心なのは収集と分類である。

というわけで土壌を収集して、その中にいる生物を集めて分類してみると、なんと未だに知られていない種というのがわらわら出てくることもあるんだと。

そういう研究活動の成果は展示に現れることもあるだろうし、自然史上の発見として世界に向けて発信されていることもあるかもしれない。

そういうところでの役割も大きい施設なのだということは知っておくべきことだと思った。