ICカードでも ひだ号ルートで計算する

JR東海はすでに全線へのICカード導入という方針を示しているが、

現状はいくつか穴があって、その最たるものが高山本線である。

国内外の観光客が多く利用する ひだ号 をカバーできないためである。

この問題について 下呂・高山・飛騨古川(いずれも特急停車駅)にTOICAを導入し、

e5489でチケットレス特急券の販売を行うことが発表された。

特急「ひだ」のチケットレス乗車サービス開始について (pdf) (JR東海)


特急停車駅にICカードを導入し、チケットレス特急券を導入するのは、

西日本管内では やくも号 や くろしお号 でみられた。

(くろしお号の走る きのくに線は 現在は全駅ICカード導入済み)

e5489というJR西日本のインフラを活用する点でも重なる点は多い。

ひだ号の利用状況からするともっと早く実現してもよさそうだと思っていたが、

ある人から 運賃計算上の問題があるのでは? という話を聞いた。


ひだ号は主に名古屋~高山~富山を結ぶ特急である。

名古屋~高山を岐阜経由で走り、岐阜駅では方向転換が行われる。

なお、1往復は大阪~高山の運行で、岐阜駅で名古屋発着の編成が方向転換するところに解結を行う。

一見どうということはないのだが、このルートは名古屋~飛騨方面の最短ルートではない。

昔は名古屋~鵜沼を名鉄経由で走る北アルプス号なんてありましたが……(cf. 高山経由の富山行きは絶景三昧)

そういう話ではなくて、JRだけ見ても最短ルートではないんですよ。

名古屋~美濃太田は多治見・太多線経由が54.0kmに対して、岐阜経由が57.6kmである。

距離だけ見れば微妙な差なのだが、高山本線・太多線の距離は運賃計算上1.1倍するので、

この換算キロで見ると 55.8km と 60.3km で4.5kmの差がある。けっこう運賃差が出る。


この区間で紙のきっぷは実際の乗る経路のきっぷを買うルールである。

ひだ号の特急券と同時に買えば当然、岐阜経由の乗車券が出てくる。

名古屋駅の運賃表などは岐阜経由と多治見経由の運賃が併記されていて、どちらか選んで買う。

ところがICカードでは経路の識別ができないことが多いので、

これまでのTOICAのルールでは最短経路で計算することになっていた。

この結果、名古屋~美濃太田を岐阜経由で乗っても多治見経由の運賃が引き落とされるし、

岐阜~中津川を名古屋経由で乗っても太多線経由の運賃が引き落とされる。

東濃地域と岐阜県の他の地域を移動する場合、鉄道では本数が多くて早い名古屋経由での移動が一般的だが、

遠回りなので本来は高いのだけど、ICカードでは安い太多線経由の運賃になる。


後で書くのだが、このような問題に目をつぶっている例はあるが、

JR東海としては気になったようで、今回の拡大にあたっては下記の制度が適用される。

※高山本線の下呂、高山、飛騨古川の3駅は、特急「ひだ」のチケットレス乗車サービス開始に伴いTOICAをご利用いただけるようにすることから、これら各駅と名古屋等の駅との運賃は、特急「ひだ」の運行区間である岐阜経由で計算することとします。

というわけで、基本的には岐阜経由での運賃計算になる。

ただし、特急での利用に限るというわけではなく

※高山本線の下呂、高山、飛騨古川の3駅については、特急「ひだ」ご利用の場合に加えて、当該3駅の各駅相互間または高山本線岐阜~美濃太田間の各駅と当該3駅の各駅相互間ご利用時に限り、普通列車をご利用の場合についてもTOICAをご利用いただけるようにします。

というわけで、運賃計算の問題が生じない 岐阜~古川 は対応駅同士であれば普通列車でもICカードでの乗車が可能となる。

本数や所要時間を考えると限られたニーズのような気はするけど。


実運用上どうなるか定かではないところはあるが、

上記の記載では岐阜~古川のIC導入駅間と特急停車駅相互に限るとはなっていない。

なので金山~高山のような利用もカバーするということだろう。

こういう利用がカバーできないとけっこう不便である。

これを岐阜経由で計算するところには異論はないだろう。

ただ、多治見~高山のような利用はどうだろうか?

美濃太田駅は特急停車駅だから、なので太多線に乗り換えるのは変な使い方ではない。

とはいえ、こういう使い方をカバーしようとすると、

太多線経由を適用する範囲と岐阜経由を適用する範囲の線引きが難しくなる。

こういうのはスコープ外になりそうだが、明確なところはわからない。


さっき「このような問題に目をつぶっている例はある」と書いたが、

やくも号の走る伯備線がまさにその典型例である。

やくもを含む伯備線の列車は倉敷経由で岡山まで乗り入れている。

ところが岡山~総社には吉備線(桃太郎線)もあって、こちらの方が距離は短い。

ただし、吉備線は利用者の割には設備が貧弱なので倉敷経由で移動すべきである。

なので、このあたりの運賃表は倉敷経由の運賃にほぼ統一されている。

ところがICOCAの最安経路ルールはこの区間にも適用されるので、

やくも号を含む伯備線を利用する人はICOCAだと運賃が若干安くなるのである。


西日本管内で紙のきっぷとICカードの最安経路ルールの乖離がよく発生するのはここぐらいである。

加茂~大阪は通常は大和路線経由だが、実は学研都市線経由の方が短い。

しかし、ここら辺は大阪近郊区間の特例により、紙のきっぷでも多くは最短ルートでの計算になる。

大都市近郊区間は経路が複雑なのでこのようなルートが設けられている。

近郊区間内外をまたぐと紙では正しく経路指定する必要があるのでICカードの方がスコープは広いが大差ない。

京都(山科)~敦賀(近江塩津)の米原経由と湖西線経由、

海田市~三原の山陽本線経由と呉線経由は必ず最安経路で計算するルールだし、

東岡山~相生は安い山陽本線ルートのきっぷで赤穂線ルートも利用できる。

大阪~和田山は はまかぜ号利用の場合は乗車券・特急券とも こうのとり号と同じ福知山経由で計算するルールがある。

ICOCAで利用する場合ははまかぜ号利用に限らず、すべて最安ルート計算になるが大差はない。

徳山(櫛ヶ浜)~岩国は岩徳線はICカード未導入だが、

紙のきっぷで山陽本線ルートや新幹線を利用する場合も安い岩徳線ルートで計算するルールなので、

岩徳線はICOCAでは乗れない(岩国~徳山を貫通する場合もNG)が、最安ルートの計算には入る。

微妙にスコープの違いはあるが、多くの場合は紙のきっぷ同様になる。


東日本管内に至ってはICカード導入区間で環状経路がある区間は、

大都市近郊区間の特例を適用し、紙のきっぷと一致するようにしている。

その副作用で 松本~いわき のような相当長距離の利用でさえ途中下車できなくなっている。

関東圏では直通運転なども相まって、最安経路と実際の乗車ルートの乖離がけっこう大きい。

例えば北千住~清澄白河、どう考えても東武~半蔵門線直通を使う区間だが、

直通だと押上で会社をまたぐ一方、東京メトロだけで閉じるルートが存在し、そちらの方が安い。

本来のルートで紙のきっぷを買うと360円なのに、ICカードでは209円となる。

こうなると東武は運賃を得られないように思えるが、実際には最短ルートで徴収した運賃を会社間で分配しているそう。


なので、今回の高山本線の対応は全国的にも珍しい対応である。

自動改札機で切り分けて実際の乗車ルートで徴収できるようにしているのはありますけどね。

太多線経由のルートを運賃計算に使ったり使わなかったりする特殊な対応となる。

おおよそ ひだ号以外での利用が考えられないということで、この対応は妥当と言えるのだろう。


東海管内ではもう1つ面倒な区間があり、それが津~伊勢市・熊野市方面である。

こちら、快速みえ や 南紀号の運行区間だが、これらは伊勢鉄道経由である。

伊勢鉄道にICカード導入の意志があるかというのは1つ問題ではあるが、

最安経路で計算すると多くの場合は亀山経由となり実態との乖離が大きい。

四日市(河原田)~津を貫通する利用は伊勢鉄道経由とみなすというような処理を導入することは考えられる。


もっとも、こちらは他の問題もあって、それが近鉄との共用駅である。

津・松阪・伊勢市と3駅も共用駅があるため、近鉄・JRの識別に困ってしまう。

(現状、この3駅はJR所有の自動改札機が近鉄のICカード精算に対応している)

柏原・吉野口のように一方の路線の利用者は必ずホーム・通路上の改札機にタッチするという運用は考えられるが、

そこまでしてICカード導入の必要があるかというのは難しい問題である。

南紀号は4往復で、新幹線接続特急としては全国有数の少なさである。

(津・伊勢・鳥羽などの主要都市へは近鉄特急が使われることが多いため)

快速みえのこともあるので、検討はされてると思うんですけどね。

検討した上でNO GOという判断はあるとは思うんですが。

東ティモールの困った話

万博で出会った国もいろいろあるが、東ティモールというのがある。

特にそんな話を万博で見たわけでは無いのだが、この国には困った問題がある。

そりゃいろいろあるだろうという話だが、言語の問題がけっこうあるらしい。


東ティモールの独立は2002年、僕が小学生だった頃だから最近だなという気はする。

ここは歴史をたどると ポルトガル領ティモール という植民地だった。

ティモール島についてはオランダも支配しており、いざこざもあったが、

境界調整が行われ、概ね西部がオランダ領東インド、東部と飛び地のオエクシがポルトガル領となった。

太平洋戦争中、インドネシアを含むこの一帯は日本軍の支配下に置かれた。

この中でインドネシアは将来的な独立に向けた動きもあったが、日本の降伏により、この話は一旦立ち消える。


日本軍撤退後はもともとの宗主国が再度支配に乗り出したわけだが、

オランダ領東インドについてはオランダが再支配しようとするも、

日本軍支配下の時代からあった義勇軍が反抗し、再支配できず独立、

1949年に正式にインドネシア共和国として独立した。

ところでオランダ領東インドというのも変な呼び名だなと思うが、

カリブ海の西インドに対して、本物のインドとその東側を呼ぶ言葉だったらしい。

オランダにとってはそれが現在のインドネシアということである。


ポルトガル領ティモールについてはポルトガルが再支配できたようだが、

1975年、東ティモールは独立を企てるも、独立宣言して早々にインドネシアに併合されてしまった。

地理的にも連続しているインドネシアと一体になるのが自然と思ったのかも知れない。

このインドネシア支配下の時代が25年ほど続くことになる


インドネシアの中で自治を得るか、独立するか問う投票が行われ、

独立が選択され、2002年に正式にポルトガルから独立して、東ティモール民主共和国が成立した。

公用語は元ポルトガル領ということもあり、ポルトガル語が筆頭で、

次いでテトゥン語も公用語となっている。

法令などはポルトガル語で書かれているという。テトゥン語では語彙が足らなくて書けないのだという。

ところがあまりポルトガル語を使える住民は多くないという。

ポルトガル支配下の時代は教育が行き届いてなかったり、

インドネシア支配下の時代に教育が充実するもインドネシア語だったり。


インドネシア語というのはマレー語とほぼ同じ意味で、この地域の共通語である。

マレーシア・インドネシアで使われる中で大変充実している。

ここに乗っかるのが丸いとは言えるのだが、これも難しくて、

それは長年続いたインドネシア支配下の時代の影響である。

とはいえ、実用上は結局便利という側面もあるらしい。


東ティモールとしてはテトゥン語を中心にポルトガル語も、

とやっていきたいところだが、テトゥン語すら地域によっては微妙らしい。

島の言葉がいろいろある中で学校など公的な場面ではインドネシア語の使用を徹底している、

インドネシアってけっこうすごいんだなぁとは思いますね。

それに習おうという考えもあると思うが、そうもいかないことが難しさである。

万博で見た非公式グッズ

4月下旬に万博に行ってから2ヶ月半ほどあけての万博、

けっこう景色が変わっていたのは「うちわ」と「椅子」だろうか。


暑い時期になり、うちわを持って扇いでいる人がいるのは不思議ではないが、

万博会場の非公式マップが貼られているうちわが多いことに気づく。

これ、どうもうちわに貼る用の地図というのがあるらしいですね。

万博には公式の地図があり、僕はチケットの裏面に印刷していたが、

本来A3サイズの地図だからA4で印刷すると小さすぎるし、

凡例を見ないとパビリオンの場所などわからないので不便ではある。

この辺を簡潔にまとめた非公式の地図があって人気を博している。

で、どうせ暑いんだからうちわに貼るといいと思ったんでしょうね。


椅子については、長い行列に並ぶために持って来ている人がいる。

並ばない万博とはいうが、実際にはけっこう並ぶ場面がある。

来場予約制ではあるが、それでも朝の入場列は長いし、

パビリオンによっては長い待ち時間になるところもある。

シグネチャーパビリオンなど、予約制を徹底しほとんど並ばせないところはよいが、

それはそれで運用が難しいところがあり、それなら並ばせた方が楽という話はある。

折りたたみ式の椅子というとキャンプなんかでよく使われるが、

アウトドア用品というよりは、円錐台状の折りたたみ椅子が人気のようだった。

椅子使ってる人の半分ぐらいがこれだった印象である。


夢洲での国際博覧会もこの週末で折り返し地点だったよう。

累計の来場者数はおよそ1170万人(関係者をのぞくとおよそ1010万人)とのこと。

想定している2820万人という来場者数に比べるとやや遅いペースではある。

夏休み前のこの時期は遠足の人も減るのか、客足は若干鈍っている。

夏休み前半にどれぐらい稼げるかというのが1つ分かれ目になるのかなと。

毎週末花火を行うなど、分散して集客を図りたいということだろう。

会期末が見えてくる時期になり、チケットの売り上げは若干鈍化し、

団体券(前売にカウントしてる)を除いては週40万枚ペースぐらいになっている。

それでも多いといえば多いですけどね。夜間券も週8万枚ぐらいは売れてるみたい。

来月半ばぐらいには採算ラインと言われる1800万枚には到達しそうではある。

雨に強い靴を選んだ結果

夏休み最終日は東京までのそのそでかけて「Pyxisのキラキラ大作戦!」のイベントに。

会場が全電通ホールという労働組合の施設でトークイベントならと思ったが、

なんと番組ゆかりの楽曲を歌うコーナーもあって驚く。


さて、夏休みの旅行で後悔したのが靴である。

雨に降られたとき困らないようにと雨に強い靴を選んだのだが、

どうしても蒸れやすいので、汗で湿疹を起こしてしまった。

そんなに履き慣れていない靴とも思わないが、万博会場で歩きすぎて靴ずれを起こしてしまったり。

帰宅して軟膏を塗ったり、絆創膏で養生したり、改善に向かっているが、

そもそもあの靴はよくなかったかなぁと。


とはいえ、雨に降られるとそれこそ大惨事である。

普段は天気など見て使い分けているが、旅行に靴を複数持って行くのも現実的ではない。

悩んだ結果として雨に強い方を選んでこうなったと。

今回の旅行、雨に降られたのは万博会場での夕立ぐらいで、

そこまで雨の中で歩くこともなかったので、結果的にはあまり効果的ではなかった。

しかし、それは結果論だしなぁ。


ちなみにこの靴はヨーロッパ出張のときにも履いていった。

理由は同様のことだが、結果的には雨に降られなかったのも同様である。

こちらはスーツケースにもう1つ入れていく手はあったかもしれないが、

それも面倒かと1つで行った次第である。


どうしてもこの時期の旅行は梅雨時なので雨は覚悟しないといけない。

過去にも散々な目にあったことがあり、こうしたわけだが、

いやはや雨に強い靴にはそれなりに欠点もあったと。

しばらくは足をいたわって暮らしていきたい。

寄り道して見た1970年の万博の軌跡

尼崎から京都を寄り道して帰るのだが、その前に尼崎で少し寄り道。

木曜に行った尼崎市立歴史博物館には別館の産業資料展示室があったのだが、

行くのを忘れてたので帰る前に寄っておこうかと。

特に書かなかったがこの博物館は無料で見られるので、分けて見ても特に問題はなかった。


やはり現代でも尼崎というのは工業都市なのかなぁ。

しかし、醤油、マッチ、紡績、火力発電、製鉄と展示されているものはいずれも廃れてしまった。

知らなかったんですけど、尼崎って製鉄所があったんですね。

今でも金属工業が目立つのはその名残なんでしょうね。

後で調べて気づいたのだが、世界的なチタンメーカーである大阪チタニウムテクノロジーズは尼崎の会社なんですね。


さて、尼崎から京都へ向かうのには阪急電車に乗ると安くて良い。

で、阪急の駅ってどこやねんと地図を見ると、塚口か園田かとなり、

阪神電車に比べて阪急電車の駅間の長さに驚く。

園田駅までバイクを走らせて畳んで、十三まで乗って乗り換えて、

桂で向かいの電車に乗り換えて到着したのは西院駅である。

直前までいろいろ悩んでいたのだが、まず梅小路に向かうことにした。

梅小路公園、バイクはどこに置いておけるのかと思ったら、自転車・バイク兼用の駐車場があった。

料金体系が違うのに入口が同じで不思議に思ったが、タイヤの幅で識別してるらしい。

自転車だと3時間まで無料だが、バイクだと1時間まで無料、以後2時間毎200円なので、

けっこう料金は違うのだが、バイクの駐車場も潤沢に用意されているのはよい。


梅小路というのは京都鉄道博物館である。

どうしてここに来たのかというと「1970年 あの頃の交通展」という万博合わせの特集展示があったから。

1970年というのは言うまでもなく大阪万博のことである。

展示されている車両を見て、新幹線500系はまだ現役だよなぁとか、

環状線スタイルで保存されている103系も兵庫県内では細々走ってるよなぁとか。

車両工場では特に特別展示もないので、117系が置かれていた。

常設の展示スペースが取れないのでこうして時々持って来ているのだろう。

軌道自転車の体験なんてあって、本当に自転車なんだなと。

主に子供向けに改造されてるのもあり、漕ぎにくくて遅いが。

重いものを運ぶこともあるので、スピードはそこそこでも有用なことがあるんですよと教えてくれた。

京都鉄道博物館は蒸気機関車の保存施設としての役目が大きく、保存車両の半分ぐらいは蒸気機関車である。

それ以外の博物館のスペースは案外狭いのである。

そんな中でも最前線を去った英雄をなんとか残せるように努力していると。


さて博物館内には復刻版の時刻表が所々に置かれていた。

昔は本当に夜行列車が多かったなと思う。連絡船を挟んだ時刻表もちらほら。

東海道新幹線開業時には新幹線の接続先に夜行列車もたくさん書かれていた。

それが国鉄がJRになる頃には現在のような新幹線中心のネットワークになっていた。

今に比べれば夜行列車など在来線の長距離列車もあった時代だが、

すっかり新幹線中心のネットワークへの集約が進んでしまった。

飛行機とのすみ分けとか、それが受け入れられるだけの理由はあったんですけどね。


さて1970年の万博輸送について、主には切符が多かったんだけど、

驚いたのは国鉄の駅から「万国博中央」「万国博東口」への切符がたくさんあったこと。

万国博中央は新大阪駅から大阪市営地下鉄・北大阪急行経由、

万国博東口は国鉄茨木駅からバスという意味で、他社込みのきっぷが売られていたと。

あと名神ハイウェイバスも万博会場に乗り入れていて、名古屋からバスも選択肢にあったらしい。

阪急のきっぷも展示されていたが、梅田~万国博西口(現在の山田駅付近)のきっぷもあり、

当時は自動改札機もない時代、往復きっぷとしてせっせと手売りしていたのだろう。

時刻表を見ると、万博入場券・きっぷなど一括手配する「万国博コーナー」なんてのもあって、

今はICカードで乗れるからそんなの事前手配しないけど。

果たして2025年の万博輸送の軌跡はどうやって残るのだろうか? と見ていた。


梅小路を出て七条通をひた走って京都国立博物館へ。

束の間の平常展期間である。3階は展示準備のため閉鎖されてたが。

目玉は修理された「釈迦堂縁起」ですかね。

修理というのは書画の書かれた紙を剥がして、修理して、改めて表装し直すことだが、

元々の表装が豪華だったので、紙を剥がした後、白紙を貼り付けてこちらも保存したのだという。

主には絵の部分で評価されて重要文化財になっているわけだけど、

箱や表装といった部分も重要文化財を構成する要素ではある。

あと「新収品展」ということで最近博物館にやってきたものがあれこれ展示されていた。


そんなこんなで京都駅八条口まで走り、バイクを畳んで新幹線に乗せる。

ひかり号がEX早特で安く買えたのでこれで。割と空いてたのもよかった。

松弁ネットでテイクアウトして家に帰って夕食をとったら、

明日暑い中買い物に行くのも嫌だとバイクで駆けずり回って買い物へ。

閉店間際に駆け込んだり、過積載でシートバックに収まらなくなったり、

いろいろあったが無事に用事も済ませて帰宅と。

汗だくの1週間だったが、帰ってきてからは涼しかった。

朝一番から夜まで万博

万博行くのにいつ出るかなと時間を見積もっていたとき、伝法まで電車に乗らず、

全部バイクで走ってもあまり変わらないというか、正味早いのではと見積もり、

実際に走って行ったが、その見込みは正しかったように思う。

そんなこんなで朝の淀川沿いを走り、橋を押し歩きし、7時40分ごろに到着。

本当は駐車場は8時からなのだが、ちゃんと開いていた。


9時開門なのでまだ1時間少しあるが、夢洲駅からはぞろぞろと来場者が。

西ゲートだと早く到着する手段が限られているので8時前に到着すると列のかなり前にいられるが、

東ゲートは中央線でなんぼでも早く来られるのであまりメリットはないとも。

とはいえ、8時前に来る人はけっこう早い方なので、9時開門ですぐに入れて、まだ会場内はガラガラ。

ボーナスタイムだった。ここでドイツ館、英国館などサクッと見た。

早めに来て待つのも大変ではあるのだが、それなりに恩恵はあるようだ。

まぁあまり早いといろいろ迷惑なのでせいぜい8時ぐらいからですけど。


昼間になって混み始めてきた。コモンズ館すら行列を成すような時間である。

マレーシア館は列が短くてスムーズに入っていく。広々してるのはあるんだろうけど。

伝統と未来社会というようなテーマのバランスもよく内容的にもよいと思うのですが。

マレーシア館はレストランがものすごく手際がよいので大人気である。(4月に行っているが)

フランス館は広場につづら折りで行列を作らせているが流れはけっこう速くて、

これで40分待ちなの? というような超長い行列だが、確かにそれぐらいだった。

Louis Vuitton と Dior が目立ち、これではさながら LVMH館 だなと。フランス館の主要スポンサーである。

ロダンの彫刻をあれこれ持って来て、様々な造形美を持って来たということなんだろうな。

ちなみに英国館も異様なまでにアストラゼネカを推していて、これも主要スポンサーである。

官民合同での万博出展自体は普通だが、1社の存在感がここまで強いのはいろいろ事情があるのだろう。

あと、かなり並んだのがヨルダン館、といっても2時間待ちといいつつ結局1時間ぐらいだったのだが。

流れが遅いのは狭いパビリオンなのもあるが、裸足になって砂の上で映像を見るのがあって、

これのスループットがどうしても遅い。とはいえ、砂漠体験とはなかなかできないことである。


今回、2ヶ月前抽選でオランダ館をとっていた。

オランダ館は外国パビリオンの中でも珍しく、予約していないとほぼ観覧できないところである。

オランダの歴史を追っていくような展示で、ミッフィーの絵本みたいなのがちょこんと貼られている。

ちょうど昼時だったので最後のカフェで買い物をしたが、ここは逆走を許していないので、

予約制でパビリオンに来場した人しか使えないという点ではハードルの高い店である。

ミッフィーグッズが人気なんですかね。ある意味では完成度が高いパビリオンである。

しかし予約ってのは思ったように取れないんですよね。

オランダ以外で予約制を取り入れているところはだいたい予約なしで並ぶ列もあるのだが、

行列が長くなりすぎると並べなくしてしまったり、予約がないと実情難しそうなところもあった。

オランダ館は全部予約ということで枠も多いが、そうでもないところが多いでしょうしね。

当日予約は結局はシグネチャーパビリオン2つということで、4月の来場時もそうでしたね。


今日から噴水が再開し、昼の噴水ショー(毎時0分から)も見ていたが、

夜の噴水は噴水というか水を散らせばどこでもスクリーンに出来るという感じが強かった。

けっこういろんなところから水が噴き出すんだなと。手の込んだショーではある。

そこから引き続きドローンショーの「One World, One Planet.」がはじまる。

もともと21時直前の実質的な閉園を知らせるショーのような感じだったが、

噴水中止の影響で当面1時間繰り上げとなっている。今後どうなるのかはわからないけど。

そんなわけで夜の万博もやっと楽しめたという感じである。今までいろいろ都合も合わなかったので。


帰りも同じルートで宿に戻り、早々風呂に入った。

明日は少し寄り道して帰るが、夏休みの旅の大きな目的である万博もわりと楽しめた。

当初から万博は3日行こう(うち1日は夜間券)と考えていたが、これでも心残りはあるけど、

だいたい見たかったところは見られたのでよかったかなと思う。

そろそろ万博の会期折り返しというところだが、おそらく僕の万博はここまでになるでしょう。

特定原付で万博会場に乗り付けるという奇妙なこともやりましたけど、それも万博ということで。

バイクで回る尼崎と大阪・夢洲

尼崎に泊まったのは万博に行くのに好都合だからだけど、尼崎もみどころはいろいろある。

というので少しバイクを走らせる。


そうしてたどりついたのが尼崎城、最近天守閣が再建(?)された。

ただ、入場券の裏に鉄筋コンクリート造と書かれていて、それで許されるということは? となる。

そもそも尼崎城跡は史跡ではない。なので特に史実と同じようにしなければならない決まりもない。

さらに言うと本来、天守があったあたりは学校になってしまっている。

このため場所をずらして建てられている。見た目はよく似せているが、他はほとんど異なる。

なぜか随所に忍者のパネルが置かれているが、これは落第忍者乱太郎の作者、尼子騒兵衛の出身地だからだろう。

(TVアニメになるとき、落第というのはよくないと「忍たま乱太郎」というタイトルになった)

ここで紹介されていたのだが、尼崎城というのは大坂の西の守りを固めるという意味があるが、

どちらかというといざというときに大坂に駆けつけられるという役割が大きく、岸和田藩と尼崎藩で分担していたという。

尼崎藩は現在の神戸市須磨区あたりまで支配していたこともあり、兵庫津も尼崎藩の管轄だった時代がある。

この意義など考えれば尼崎を含む阪神地域は和泉同様に大阪府になっていたのかもしれない。

ところが江戸時代後期に阪神地域の領地が縮小され、その割に期待される役目が大きく困窮してしまう。

そんな中で本丸が火災で焼失、再建は厳しいと思われたが地元から支援があり、早期に再建された。

このことを「みんなのお城」と紹介していたが、この考えは再建後の尼崎城でもあるようで、一口城主として寄付を募っていた。

廃藩置県後の尼崎県は兵庫(神戸)開港の影響もあり、兵庫県の一部となり、かつての城下町の名残は寺町に残る程度である。


とはいえ、実はよく残っているところがあって、それが尼崎市立歴史博物館である。

もともと学校だったものに埋蔵文化財センターを移設して、そこに博物館としての機能を持たせたわけである。

で、ここが尼崎城の本丸で、工事のたびにいろいろ発掘調査をして、かなり全貌が明らかになっている。

最初は縄文時代ぐらいから話が始まって、今の尼崎市域は猪名寺あたりを除いて海だったというので、たこつぼが大量に出土したなんて話が紹介されていた。

明治以降の尼崎は工業都市として発展したが、公害に苦しめられてきた歴史もある。

地盤沈下による高潮・浸水被害、「日本のオランダ」なんて言われてたが原因が地下水のくみ上げだから。

大気汚染・騒音、これは近年まで国道43号線公害訴訟の原告団との連絡会が続いていた。

近年ではアスベストなんていうのも問題になった。アスベストのサンプルも展示されていたが。


ところで尼崎といえばかつては紡績業が盛んで、ユニチカ創業の地である。

その旧事務所がユニチカ記念館として残されていたが、耐震性の問題があり、ユニチカの経営不振もありユニチカ自身はなんともできず、

尼崎市が引き取って保存に向けた方策を考えることにして、今は放置されている。

その旧ユニチカ記念館の外観を見るかと少し走らせると確かにあった。荘厳な建物である。

ただユニチカってのはもう尼崎にいないんですよね。今は昔ということである。

その近く、小田南公園には阪神タイガースの2軍本拠地が引っ越してきて、巨大な野球場がある。

ほぼ全て野球場という異様な公園である。1つは市民向けの軟式野球場として使われている。

熱狂的なファンの多い阪神タイガース、2軍本拠地も熱狂的なファンが押し寄せるのだろう。


で、少し走ってたら最寄り駅が杭瀬駅になってしまったので、杭瀬でバイクを畳んで福島まで乗る。

福島で組み立てて中之島へ。国立国際美術館である。

特別展「非常の常」はさながら映画館だった。映像作品ってのはどうなんでしょうかね。

「非常」というのは戦争・自然災害・政治的混乱とかそんなテーマを扱った作品を集めたということだが、

現代美術にそういうネタ多すぎませんかねと釘を刺したのかもしれない。真相はわかりませんが。

映像というのは美術館で見るに適してない気はするが、面白い表現があることは確かである。

コレクション展は「円・環」がテーマで、「線」をテーマにした展覧会をやったから丸なのだろうか。

まぁこの辺は相変わらずだなと思いますね。


というわけで、そろそろいい時間ということで夢洲に向けて走って行く。

途中、マクドナルドでシェイクとバーガーを買って一服、会場は入ってパビリオン回ってたら夕食どころではないかもしれないし。

夢洲までは淀川リバーサイドサイクルラインが通じている。

伝法付近までは自動車一方通行の道を自転車は対面で走る形で進んでいく。そんなのありかよ。

国道43号線と交差するところで一旦切れるが、ここから本格的な自転車歩行者専用道路が始まる。

両側路側帯付きなので歩行者と自転車はうまく分けられており、快適である。

淀川沿いの景色を楽しみながらずんずん進んでいく。

出入り部には自転車・歩行者だけ通れるように車止めがあるが、形状によっては通れないかも。

で、常吉大橋の手前まで来るのだが、ここから常吉大橋までは歩道走行区間である。

車道に出ようにも柵があり出られないので、特定原付は歩道モードで耐えるか押し歩きか。

常吉大橋は本線は軽車両・歩行者通行止めで、歩道を押し歩きで進むが、地元の人は自転車こいで走って行く。

(一応、斜路を過ぎて橋の上は自転車通行可なのでこいでよいが、そんな切り分けする人は見なかった)

舞洲内は車道を出て走ることもできるが、自転車は一般的には歩道通行でしょう。


そして夢舞大橋は本線は軽車両・歩行者通行止め(実は歩道開通前はこの規制はなかった)なので、

やはりここは歩道を押し歩き。斜面もきつく距離も長いので、ここは本当に疲れる。

そんなのでヘトヘトになったので、夢洲内は歩道モードでだらだら走っていた。

ここも車道に出られないので歩道モードか押し歩きしかない。いや本当に歩道モードあってよかった。

夢洲自転車駐車場を使えるのは自転車と「特定特例原動機付自転車」なので歩道モードにできない車は使えないルールなんですが、

それはこんなに長距離を押し歩きするのは現実的ではないだろうという意味なのか。

予約していた画面を見せて駐輪場に停めるが、駐車料金500円で、2つの橋を渡る難しさなのかガラガラだった。


16時過ぎに東ゲートにたどり着くと、帰る人の方が多いが来る人も多い。手荷物検査もそこそこの行列である。

夜間券での夕方からの万博も定着していると言うことなのだろうか。

結局入ったのは17時ごろなのだが、この頃、夕立で雷がゴロゴロ鳴っていた。

それでリングの下には人が大勢、実はパビリオン前の行列を解散させてリング下などに避難させていたのだ。

このためしばらくはほとんどのパビリオンが休業状態、けっこうな混乱だった。

このため今回の夜間券での万博は行列を成すようなパビリオンはほとんど行かなかった。


とはいえやはり夕方以降はいろいろ空いてくるのでUAE館とかインド館とかはサクッと入れた。

UAE館は先端技術に関わる人のインタビュー映像があって、その中に若田光一さんがいて、

なんで? と思ったらUAEの宇宙開発のアドバイザーとして関わっているようなことを言っていた。

インド館はやたらと館内に座れるところがあるのはお国柄か。モディ首相のリーダーシップで鉄道の電化が進んだとか映像が流れていた。

お国柄ということではシンガポール館の手際の良さ、行列がスルスルと入っていく。

「建国60周年に向けて」なんてみると歴史の浅さを感じる。それがシンガポールのアイデンティティか。


帰りは伝法駅まで走って、折りたたんで電車に乗せて尼崎まで。

これをやりたかったから尼崎に宿を取る必要があったんですね。

自転車(特定原付)で万博行くなら実質的には尼崎が一番近いので。

というわけで明日は1日万博である。予定ではこれが会期中最後の万博行きになるはず。

朝一番から最後まで楽しめるので、どれぐらい回れるかわからないけど楽しみたい。

塩とうすくち醤油の町

さて、倉敷での滞在も楽しんだところで、明日からの万博に向けて移動するが、

当然それは寄り道もあって、けっこうハードである。


倉敷から朝のラッシュの少し混み合った電車に折りたたんだバイクを担いで乗る。

当初検索したときには岡山で乗換となっていたが、駅に行くと播州赤穂行きと書かれた電車がいた。

これが検索時に岡山から乗るとなっていた電車そのものなのだが、なぜ乗換させようとしたのか。

それは岡山で切り離し作業をしているうちに後続列車が来るからである。

てっきりこの後続列車というのは山陽本線の姫路方面に行くのかと思ったら岡山止めだった。

岡山~姫路の路線図を見ると山陽本線ルートと赤穂線ルートがあり、通常は山陽本線の方が早いが、

ちょうど山陽本線ルートの列車が空く時間らしく、姫路まで行くにも赤穂線ルートの方が早いらしい。

そういうこともあるんですね。とはいえ、それも関係なくて、なぜならば次の目的地は赤穂だから。


というわけで赤穂に到着、荷物をコインロッカーに入れてバイクを組み立てる。

赤穂駅を出て走って行くと、パイプから水が吹き出ていてなんだ? と気になるも、

道路の真ん中で止まるわけにもいかず、走って行くと「息継ぎ井戸」というのがある。

これは赤穂事件の原因となった赤穂藩主 浅野内匠頭の刀傷事件を知らせる使者が一息ついた井戸ということなのだが、

この井戸、一般的な意味での井戸と異なり、川の上流で組んだ水をパイプでつないで汲めるようにしたものである。

というのも赤穂のような海に近いところでは、井戸は塩水が出るし、川も塩水遡上がある。

なのでこういう方法が取られていたと。それを保存して道路の真ん中で出してたんですね。


そんなこんなでたどりついたのは赤穂海浜公園である。地図で見るとデカイ丸池が2つあるのが目立つが。

ここに赤穂市立海洋科学館というのがある。名前からイメージが付くかわからないが塩がテーマである。

ゲート前にバイクを停めて、園内を歩いて行くと潮の香りがだんだん強くなっていく。

すると巨大な木造の構造物が見えてくるが、これは流下式塩田で、科学館の展示物であり、現役の塩田である。

木造の構造物の周りには流下盤と呼ばれる砂を敷き詰めた部分がある。ここでまず海水を濃くする。

その上でポンプでくみ上げて枝条架にかけることで効率的に水分を蒸発させる。

流下盤は夏向き、枝条架は冬向きで、2つ組み合わせて年中塩作りをしていたのだろう。

他にも入浜式塩田も大きいものがあり、こちらも塩田体験に使われている。一応は現役の塩田?

もう1つ古い揚浜式塩田はさすがに展示だけのような気はするけど。


このあたり見てから海洋科学館に行くと、このあたりの塩田の歴史を説明してくれた。

もともとこのあたり一帯は東浜と呼ばれる広大な塩田で、そのごく一部が公園として整備された。

1972年に塩田が廃止され、その跡地は工業地や住宅地になった。東浜は住宅地になった部分が多いようである。

その東浜に公園を整備するとなり、塩田の歴史を継承するために1987年に塩田が再現された。

近くに東浜の塩田の写真があったが、流下式塩田が立ち並ぶ光景が写されていた。

赤穂では東浜と西浜に広大な塩田があったが、東浜ではにがりを残した塩を作り、関東・東北で人気だったそう。

西浜では普通の塩を作り、関西を中心に広く使われ、醤油やそうめんなど播磨の地場産業にも使われたという。

科学館の入場者には袋に入った塩が渡されたが、これは流下式塩田と釜屋で作られた塩だという。

そう、現役の塩田というのはそういうことなんですね。科学館のおみやげという形だが塩を製品化してるんですよ。

そして、この科学館の入館者は塩作り体験として、流下式塩田でできたかん水を炊いて塩を作る体験ができるという。


その時間まで科学館の中を見ていたが、海洋科学館という割には陸上の自然史の話もけっこう多い。

赤穂市のローカルな自然史博物館としての機能も持っているのだろう。

瀬戸内海の特徴を示した資料があり、干満の差の大きさを図示したものを見ると太平洋にくらべてだいぶ大きいことがわかる。

入浜式塩田は干満の差の大きさが必要で、このため瀬戸内海での製塩が盛んに行われたという。

断面を示した図を見ると明石海峡がずいぶん深いことがわかる。これは明石海峡大橋が難工事になった理由でもある。

やはり気合いが入ってるのが塩についての展示で、各地の岩塩やオーストラリアから輸入している天日塩を置いたり、

食塩の工業用途での重要性を説いたり、赤穂の製塩業の年表があったりする。


ところで赤穂って今でも塩を作ってるんでしょうか? 気になって後で調べてみた。

赤穂には日本海水の工場があり、ここではイオン交換膜法での製塩を行っている。

この日本海水の前身となった会社には赤穂西浜塩業組合があり、まさに赤穂の塩である。

一方の赤穂東浜塩業組合は塩田の時代から海水の成分を利用した化成品を作っており、

塩田がなくなってからも 赤穂化成 という会社で事業を継続してきた。輸入した天日塩やにがりを利用していたのだろう。

その赤穂化成に昔ながらのにがりを含んだ塩を求める団体から要請があり、

輸入天日塩とにがりを利用して、赤穂の伝統製法である差塩製法で作ったのが「赤穂の天塩」である。

ちなみに海洋科学館は赤穂化成が命名権を買って「赤穂の天塩海洋科学館」と命名されている。

ルーツが東浜の塩田にある会社なので必然かもしれませんが。


塩作り体験なのだが、かん水をかき回しながら加熱していくというものだが、

濃度18%とかになっているので案外塩が出てくるので驚いた。

あと、にがりも含めて全部塩になってしまっているのだが、そういうこともできるんだなと。

ただ、吸湿性が高いので開封後の保管には注意をとのことだった。

袋詰めするときに零れてしまったのをなめたが、かなり苦いなと思った。にがりを加えるにもバランスが重要ではないか。


赤穂城を見物しつつ、播州赤穂駅へ。

アース製薬が「忠臣蔵のふるさと」「アース製薬発祥の地」と駅名標や看板に入れる権利を買ったので、ずいぶんにぎやかである。

電車に少し乗って竜野駅で下車。竜野駅というのは播磨の小京都として知られる龍野の玄関口……というには少し遠い。

実際には姫新線の本竜野駅が竜野の玄関口だが、歴史的経緯からこういう命名になっている。

もっとも龍野市・揖保川町などの合併で たつの市 となったことで、現在が竜野駅が市の玄関口といってもよさそうである。

その竜野駅から揖保川沿いにバイクを走らせて、案外近いなと思った。わりと龍野から自転車で使ってる人も多そうである。

駐車場が見えたのでちょこんとバイクを置いて歩いて龍野の城下町に向かうが、けっこう離れている……


なかなか寂れた感じもある古い市街地だが、ずんずん歩いて行くと城が見えてきた。

龍野城という建物はあるが、1975年に再建されたもので、女学校の敷地になったりいろいろあったよう。

ちょうど龍野に近づくときに川向こうのヒガシマル醤油の大きな工場が見えたが、

龍野は うすくち醤油 の発祥の地で、現在も一大産地である。それがあのヒガシマル醤油の工場なのだが。

そのヒガシマル醤油の古い社屋を利用した「うすくち龍野醤油資料館」というのがある。

今に比べれば手工業的ではあるが、わりと近代的な機械も導入されている。

うすくち醤油の特徴は、もろみを絞る少し前に甘酒を入れること。

原材料に米を含むという説明だが、具体的にはこうじを付けた甘酒としてぶち込んでいる。

なんでそんなこと思いついたんでしょうね。味を調えるのに効果的だからという話らしい。

播磨の大豆・小麦・米、赤穂の塩、揖保川の水 でこうして醤油を作っていたのだという。

ちなみに竜野駅は醤油の出荷に使われていたこともあり、そのための倉庫もあったんだとか。


龍野は2019年に重伝建地区となっている。歩くところによっては風情ある町並みである。

小京都とはいうけど、そこまでという感じはある。

バイクに再び乗って、ヒガシマル醤油の工場の横を通って本竜野駅へ。

ここでバイクを畳んで姫新線にのる。ちなみに姫新線のこの区間はICOCA対応である。

姫新線は2両編成でやってきて本竜野でもそこそこ混んでると思ったが、

姫路市内に入り、余部・播磨高岡とドカンドカンと乗ってきてひどい混雑である。

姫路駅でみんな降りて、バイクをえっちらおっちら運んで、米原行きの電車に乗ったら、

新快速ではなく普通(快速)だったが、まぁ新快速は混むからこれでいいかと少しのんびり進む。

そして尼崎市内の駅で降りて、バイクを組み立ててホテルまで。

ホテルは阪神沿線なのでちょっと遠い。普通なら三宮で乗換でしょうね。


そんなこんなで少し大変な1日だった。

土壇場で大浴場のあるホテルに変えたのだが、すぐ風呂に入れるのは本当にありがたい。

尼崎という土地柄、甲子園球場と大阪ドームでの野球観戦、今だと万博のための宿泊が多いようで、

実際、明日・明後日と万博に行くのに尼崎に泊まっている。

この尼崎というのが重要なポイントなのだが……明日は少し尼崎を楽しんで大阪へ行く。

瀬戸大橋の両岸

宿のすぐ近くに「倉敷美観地区」と書かれた一帯がある。

なんでこんな名前なのだろうと気になるが、倉敷川沿いの歴史的な町並みをこう呼んでいる。

調べたら美観地区というのは都市計画上の名前で、伝建地区の制度ができる少し前から市の条例で景観の保存をしていたそう。

後に「倉敷市倉敷川畔」で重要伝統的建造物群保存地区となっている。


ここに大原美術館というのがある。

他の美術館が企画展でここから作品を借りてきて展示しているので知っていて、

それが倉敷にあるということを意識したのはいつだったか。

この大原美術館、驚いたのは1930年にできているということ。西洋画を展示する美術館としては日本最古である。

しかもここに並んでいるコレクションは美術館の展示のために購入されたものである。

もともと収集されていた個人のコレクションを並べたところがスタートじゃないんですね。

購入によりコレクションを形成する美術館が1930年の倉敷にすでに存在していたことが驚きである。

大原とは創設者の名前だが、館内では倉敷紡績の創業家として紹介されていた。倉敷紡績は後にクラボウと名前を改めている。

同社の兄弟会社のような形で設立されたクラレの方が有名で規模が大きいですけどね。

大原美術館のスポンサーの最初にクラレとクラボウが書かれているのは必然ですね。


そんな大原美術館のコレクションだが、有名なのは開館前にヨーロッパで買い付けた西洋画なんかな。

大原孫三郎が援助していた画家、児島虎次郎を研鑽のためにヨーロッパに送った際に買ってきてもらったもので、

クロード・モネから「睡蓮」を直々に買ったら、近年にスイレンが送られてきたので池で育てているなんて話もあった。

ただ、それだけじゃないんですね。それ以降、現在に至るまで日本の西洋画を収集している。

大原美術館の開館時の案内状にも書かれているが、児島虎次郎の作品も大きな目玉だったんですね。

実は児島虎次郎は開館直前に亡くなってしまったのだが、彼のために作った立派なアトリエがあって、

長年使われてなかったのだが、2005年から作家を呼んで滞在して作品制作してもらうARKOという事業がはじまった。

美術館のルーツにも迫る事業と言える。それに関わる作品もどんどん増えているわけですね。


観覧券は本館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館の3館で見せる。館ごとに違う日でもいいらしい。

この工芸・東洋館というのはおおよそ美術館とは思えない空調である。暑すぎる。

展示物が耐久性の高い陶器や石が多いのはあるんだろうけど。米蔵の転用で作ったらしい。

ちょっと不思議な気がしたのだが、実はこれも美術館のルーツにつながるものである。

児島虎次郎記念館、もと中国銀行の建物を改装したもので、今年オープン、児島虎次郎の作品を展示することを目的としているが、

一番最初の展示室にはエジプトあたりの陶器などがあれこれ展示されている。

実は児島をヨーロッパに送ったとき、西洋画だけでなくこんなのも収集していたと。

日本の陶芸家の作品を収集したのもこのあたりに背景がありそうである。


さて、次の目的地に向かうためにバイクを走らせて茶屋町駅に。

昨日、下津井からの帰りも茶屋町駅で降りてバイクで走っているので同じ道を行くことになる。

ところでこの道に限らないのだが、岡山県のこのあたりの道は転落しそうで怖いところがたくさんある。

道路との間に柵も何もなく、増水時は道路と用水路の境目がわからなくなる「人喰い用水路」での事故はたびたび報じられる。

さすがに今は無対策の用水路は少ないが、小さな反射板があるだけとか、広い間隔でポールが立っているだけとか、

他の地域ではなかなか考えられないような弱い対策である。それだけ数が多いんですよね。


茶屋町駅でバイクを畳んでマリンライナーに乗る。

昨日、下津井に行ったので時間に余裕があるということで四国まで足を伸ばすことにした。

瀬戸大橋というが島の上を通る高架橋を走る区間もけっこうある。

一番最初の櫃石島から坂出市なので、瀬戸大橋はほぼ全て坂出市内にある。

坂出駅で下車して瀬戸大橋記念館までバイクを走らせていく。けっこう距離はある。

ちょうど昼時だったのでうどんを食べる。讃岐うどんだなぁと思う。

瀬戸大橋の坂出側の根本は工業地帯である。後で知ったのだが、このあたりは元塩田らしい。

瀬戸大橋に近づくにつれ、高架橋の高さが気になってくる。この下を大きな船が通るので高いのである。


瀬戸大橋記念館では瀬戸大橋ができるまでのことが様々紹介されている。

最初の方に讃岐鉄道(後に国有化され、JR四国の原型となる)の設立時、塩飽諸島の島を橋台にして橋を架ければ霧などの影響なくどこでも行ける、

という現代の瀬戸大橋そのものの野望が語られたが、特に実現性はなかった。

連絡船で本州・四国間の鉄道ネットワークは結ばれ、これで一応はよかったのだが……

1955年、修学旅行生らを乗せた連絡船が沈没する大惨事が起きた。濃霧が原因の1つである。

これをきっかけとして本州・四国間の架橋計画が動き出した。これはけっこう有名な話。

いろいろルートは考えられたが 神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルート の3つに集約された。

この中でどれを優先するかという話があり、神戸・鳴門ルートを優先する案もあったようだが、

距離が短く費用面で安い児島・坂出ルートが優先され、当初から道路・鉄道併設で作られた。

瀬戸大橋は1本の橋では無く、複数の橋の組み合わせだが、それは島をまたぐごとに別の橋になってるのもあるけど、

記念館の目の前、与島との間にかかる橋も中央にある4Aアンカレイジを共用する2本の吊り橋である。

船の航路は備讃瀬戸北航路(西行)と南航路(東行)に分かれているのでここで2つの橋に分けたと。

橋を様々組み合わせた瀬戸大橋の経験を生かして、本四架橋最長の吊り橋、明石海峡大橋の建設に挑んだという経緯もあるらしい。


大変なのが橋台を海の中に置くことで、設置ケーソン工法というのが開発された。

造船所で作った箱を曳航して、そこに海水を注いで沈める。そこに粗骨材(石)を投げ入れて、モルタルを注入してコンクリートにする。

海水を注いだ後にモルタルを注ぐとモルタルは海水の下に沈み海水が排出されるらしい。

一見シンプルだが、大量のモルタルを海上で用意するのが大変で、専用のモルタルプラント船を造り、

そこにモルタルの材料を絶えず船で運ぶという大変な作業だったという。

あと、置く場所も海中でダイナマイトで発破して岩盤を出すというので、いろいろ工夫があったという。


去るときは宇多津に向かって走っていったので、宇多津駅から本州に戻る。

宇多津駅は路線図上は児島駅の隣だが、マリンライナーは短絡線で坂出へ向かうので、

ここから隣の児島駅に行くには特急に乗るか、坂出で折り返す必要がある。

直近は特急なのでサクッと特急に乗りましょう。児島までの乗車券・特急券を買って乗る。

チケットレス特急券よりも自由席特急券の方が安かったのでね。

児島に戻ってきてバイクを走らせてやってきたのは 児島学生服資料館、日本被服(ニッピ)の敷地の片隅にあるみたい。

一番最初が足袋の話から始まって驚くが、最初の学生服は足袋の生地を使っていたらしい。

もとは木綿栽培が盛んな土地だったことから木綿を利用した繊維製品の製造が行われるようになり、

まずは足袋、そこから学生服や作業着に発展していったという。作業着という側面では日本におけるジーンズ発祥の地として知られている。

学生服の材料が化学繊維主体となり、こうなると化学メーカーから布を買って……ということになる。

児島の学生服メーカーのポスターやらなんやら集めていて、その中には変形学生服のポスターなんてのも。

こういうのも1つの側面のようである。数多くの学生服メーカーが児島にはあったという。今でも多いんですけどね。

2階には学生服の試着コーナーがあって、グループで来てたらこれで写真撮りあったり楽しいのかもしれないが……

ちなみに資料館の前には店舗があって、近隣の学校の名前がずらりと。近所の人は工場門前の店に制服など買いに来るのだろう。


せっかくなのでこのまま玉野方面に海沿いを走っていくことに。よい景色だ。

途中で電動キックボードとすれ違って驚いたが。

玉野市というのは玉と宇野の合成地名である。玉は造船所の町で、三井E&Sの巨大な工場がある。

厳密に言うと三井E&Sは船用エンジンの製造などに注力し造船業から撤退、

ここで船を造っているのは三井E&Sから事業譲渡された三菱重工マリタイムシステムズである。

そこからさらに進むと宇野、ここは連絡船は発着した港町である。

瀬戸大橋ができてからも高松行きのフェリーが高頻度で運航され、瀬戸大橋線が止まってもフェリーが動いているときは、

振替輸送を利用するため、マリンライナーが宇野発着となりかつての連絡船の光景が蘇ることもあった。

しかし、高松航路がなくなり、今は小豆島・直島への航路が残るばかり。かなりローカルな港になった。


ここでバイクを畳んで再び茶屋町駅まで。またここからバイクで走って宿へ向かう。

まさかこの旅行中3回も茶屋町駅に来るとは。

大原美術館の案内にも茶屋町駅からバス・タクシーというアクセス手段はかいてあったから、

四国方面から倉敷市街へのアクセス手段としては真っ当ではあるんだろうけど。

まぁなかなかバイクがなければこうはならないかなという気もする。

そんなこんなで

真備と水島と下津井

今回の旅行は大きく2つである。前半は倉敷、後半は大阪、主には万博である。

電動バイクを持って行くわけだが、家を出て駅に向けて少し走り出したところでおかしなことに気づき、

少し振り返ったら充電器を荷物に入れるのを忘れていることを思いだして引き返した。

これ、一番やってはいけないミスなのだが……帰っていろいろ反省しなければならない。

幸い、すぐに引き返して荷物に入れて、駅に走るとなんとか想定の電車に乗れた。

東京駅での乗換が慌ただしくなるか、早割放棄して列車変更かと思ったが、特に問題はなかった。


だいぶ前から電動バイクを持って行きたいところとして岡山県は考えていた。

といっても当初は津山だとかのイメージだったが、なかなかこれが計画が立てにくかった。

そんな中でここしばらく倉敷市について聞くことが多く……仕事の話はいい話ではないのだが……

いろいろみどころがあってよいのではないかと倉敷を拠点に見て回ろうと思った。

そんなわけでのぞみ号で岡山駅まで。岡山に来るのは大学院時代の学会以来か。

といってもすぐに乗り換えてしまうのですが。黄色い電車に乗って数駅、倉敷駅で下車。

ちなみに新幹線にも新倉敷駅があるが、こちらは玉島地区という倉敷の中心部とはまた違った地域にある。

倉敷駅を出て大都市だなぁと思いながらバイクを組み立てて走り出す。


宿に荷物を預けて、西に走って行く。イオンモール倉敷の巨大さに驚きつつ、

少し進んだところで北に向きを変え、倉敷大橋を渡る。

倉敷大橋もそこそこ新しいが、急カーブで方向を変えた先の橋はさらに新しい。

新柳井原橋、2023年に通水開始した新しい小田川にかかる橋である。

真新しい護岸が多く見えるが、全てが全て新しいというわけでもない。


2018年7月、梅雨前線による豪雨で西日本各地で土砂災害・浸水・洪水など多発した。

様々なところで被害がでて、特に広島県内の土砂災害は甚大だったが、

それと並んで大きな被害が出たのが倉敷市真備町の洪水である。

小田川と支流の堤防が複数決壊、死者51名、家屋被害 約5500棟というすさまじいものである。

背景には小田川の合流先の高梁川の水位が高く、小田川の水が流れていかないことがある。

このような問題の打開策の1つには合流先の高梁川の流下能力を上げる方法もありそうだが、

そうすると下流の倉敷市街に甚大な被害が及ぶ恐れがある。

そこでかねてから考えられていた小田川と高梁川の合流点を下流に動かす事業が動き、

被災後わずか5年で完成を迎えたという。途中で見た碑に書かれていたが本来は10年はかかる事業だが、大急ぎでやったのだという。


新しい小田川はもともと柳井原貯水池だったところを活用している部分が多い。

付け替え前から遠目には川にも見える貯水池だが、これもまた水害対策である。

実は高梁川と小田川が合流した後、西高梁川と東高梁川に分かれていた時代があった。

一見すると2つの川で分担できて良さそうだが、東高梁川は過去の砂鉄採取の影響で天井川になり、倉敷市街にたびたび洪水被害を生じさせていた。

このため明治時代に合流点からしばらくは東高梁川、そこから開削部を経て、広い西高梁川に流すルートに一本化した。

東高梁川の跡地は市街地化したが、西高梁川跡地は締め切って貯水池にしていたわけである。

このときの西高梁川を復活させて、小田川にしたという感じである。

従来の合流点は長い長い堤防で締め切られ、ここを見ると大変な大工事だったことがわかる。


今の真備は一見平穏である。支流の高い堤防を乗り越えるために急坂があるのは気になるけど。

しかし相当な家屋が建替を要したことは容易に想像できる。

真備には井原鉄道の高架橋が通っているが、吉備真備駅付近の高架橋に黄色いマークがある。

実はこれ、洪水でここまで浸水したということを示すマークである。

小学校にもこのマーキングがあったが、よくここまで浸かった建物を使えているなと思う。

再建された堤防から真備を見てみると、確かにこれが決壊すると浸かるなと思う。

決壊の原因となった水位の上昇は付け替えにより相当起きにくくはなったはずだが……


真備という地名の由来は吉備真備という人名から来ている。

この人、遣唐使として派遣されたエリートで、このあたりの出身だと記録が残っている。

まきび公園などに中国風の建物があるのは、遣唐使のイメージなんだろう。

まきび公園の看板では真備はカタカナの発明者だとか、囲碁を広めたとか書かれている。

本当かはちょっと怪しいところはあるらしいが、当時のエリートの出身地ということである。

月曜なんで展示施設とかは休みなんですけどね。


思ったより早くことが済んでしまったので、明日行こうと思っていたところに先に行くことに。

清音駅まで走ってバイクを畳んで1駅乗って倉敷駅に。そこでバイクを運んでたどり着いたのは水島臨海鉄道の倉敷市駅である。

水島臨海鉄道は工業地帯で知られる水島地区への人と貨物の輸送を担っている。

実はさっき出てきた東高梁川のあたりを走っているらしい。東高梁川のかつての河口付近を工業地帯にしてしまったと。

現金できっぷを買って、1両編成ディーゼルカーに乗り込んで、高架をちんたら走っていく。

駅間隔は短く、路面電車のような趣もある。名前の割には生活路線である。

終点は三菱自工前だが、通勤時間帯しか走ってないのか水島行きばかりだった。


ここでバイクを組み立てて、線路を追ってしばらく走って行くことにする。

工業地帯の中、様々な工場があるが、大きいのは石油化学ということになるのかな。

巨大なタンクや道路をまたぐパイプラインなど、石油化学コンビナートだと思いながら走っていたが、

工場の入口にたどり着いてしまい、間違えたと引き返すと、コンテナ貨車を引いた貨物列車が踏切を渡っていた。

どうも水島臨海鉄道の貨物列車は主には一般的なコンテナ列車らしい。

もちろんコンテナの中身には薬品とか入ってるわけですけどね。一見面白くないが、便利なことは違いない。

で、ここから進んでいくと瀬戸大橋の方に行けるんですよ。瀬戸大橋へ向かう高速道路も見えてくる。


そこから少し方向を変えてたどり着いたのが下津井港である。

ちっちゃい電車が置かれている広場があったが、かつてここには下津井電鉄という軽便鉄道があった。

下津井電鉄は現在もバス事業を行っており、下電バスと呼ばれていることが多い。

その下津井というのはこの港町である。この軽便鉄道は1991年まで残っていた。

元は茶屋町~下津井を結んでいたが、廃止直前には児島~下津井になっていた。

というと瀬戸大橋線に代替されたのかと思ったかも知れないが、茶屋町~児島の廃止は瀬戸大橋着工より前の1972年である。

これは岡山・倉敷~児島でバス利用者が増えた一方、児島~下津井は道路状況が悪いため鉄道を維持したためである。

下津井は丸亀までの航路との接続という目的があった。ところがこれも瀬戸大橋開通でなくなる。

かくして下津井電鉄は全線廃線し、その跡地は風の道という自転車・歩行者専用の遊歩道で残されている。

これって特定原付はどうなんでしょう。自転車・歩行者専用道路ならいいんですけど。


瀬戸大橋というのは1本の橋ではなく、下津井からよく見えるのは櫃石島までの下津井瀬戸大橋である。

瀬戸大橋架橋記念公園というのがあるが、実態は下津井城跡である。

あまり橋を見るような公園ではないが、場所によってはよく見えるという感じ。

ここから隣を見ると奇怪なアトラクションが見えるが、これが鷲羽山ハイランドである。

話には聞いてたけど、こんなところなのか。


児島駅にたどり着いてマリンライナーに乗って茶屋町駅で下車。

ここから真っ直ぐ走っていくと倉敷市街にたどり着くのでここで下車している。

瀬戸大橋の本州側が倉敷市というのは少し意外な感じもあったのだが、

水島と往来したり、倉敷市街と往来できるポイントがいろいろあったり、それなりに理由はあるんだなと。