今日は自転車で出かけていたのだが、その前に地図でルートの近所を調べていたときのこと、
なんか低層の建物がまばらに建ち並ぶ不思議な地帯があった。
なんだこれは? と思って近所に目を向けてみると「ハンセン病資料館」という建物が書いてある。
これは国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病療養所の1つですね。
そう言われればなるほど納得である。
東村山市の所沢街道沿い、生い茂った木に囲まれた中に多磨全生園はある。
入居者はすべからず高齢者、老人注意の標識が周辺の道路に付けられている。
今は周辺を散歩することもあるんかね。
そんな多磨全生園の外周を走って行くと、ハンセン病資料館がある。
入場は無料、月曜日以外は基本的に開館しているよう。
思いの外、広い建物である。
ハンセン病の歴史はなにかと見聞きする機会があるが、かつて隔離政策が行われていたという歴史がある。
多磨全生園を初めとする国立療養所はかつての隔離政策の名残を表す施設で、今も入居者は残っている。
ただ、今からして見ると、なぜこういう施設ができたのか? なぜ未だに残っているのか? という事情はよくわからないものである。
そのあたりの事情を展示を通じて考えることができるようになっている。
そもそもハンセン病とはなんぞやという話だが、らい菌による感染症で、今は抗生物質の類で治療が行うことができる。
ただ、かつてはろくな治療法がなく、不治の病という認識だった。かといってそうそう死ぬような病気でもなかったのだが。
問題は症状が外見に出ること、遺伝性であるという誤解とか、そういうところで社会から追われる存在になってしまったことで、
国立療養所ができる以前のらい病(当時はそう呼ばれていた)の患者には浮浪者になる人が多くて、これは問題だという話になっていた。
資料館の玄関に四国遍路に出るらい病患者の像があったけど、社会から追われた患者の1つの選択肢だったようだ。
ともあれ、これはよろしくないということで明治時代に民間の療養施設ができはじめ、それに次いで国立療養所が作られていった。
人手不足などの問題はあったものの、行くところがなく浮浪者になっていた患者に居場所を与えることができるようになってきたわけである。
一応は当時の水準で考えられる治療が施されていたそう。
と、ここまで見ればなかなか理にかなった施設に見えるのだが、実情としてはいろいろ問題があったそう。
まず、当初は行き場のない患者のための施設という位置づけだったのが、強制収容に移り変わって行ってしまったこと。
確かに感染症には違いないのだが、実はそこまで感染しやすかったわけでもないらしい。今だからこそ言えることなのかもしれないが。
栄養状況が悪かった時代に子供が感染しやすかったということで、今の日本ではらい菌があったところでまず感染しないだろうと。
ただ、当時の理解としては、患者を完全に隔離できれば感染の広がりは抑えられるだろうという考えだったようだ。
隔離とともに断種、すなわち子供を作ってはならないということになっていたのも、いまからすればひどい話である。
患者の子供が感染しやすかったということで一見正しそうに見えたのかも知れない。遺伝病という誤解もあったのもこのあたりの事情があるのだろう。
そして、もう1つ問題だったのが、療養所が患者の労働によって支えられていたことである。
いや、これ自体は社会から切り離されてどうにも立ち位置がない患者にとってやりがいを与えるものという点ではよかったのだが、
実はハンセン病という病気は知覚麻痺を引き起こす病気で、作業中にケガをしても気づくことができないなどの問題があったのだ。
ケガに気づかないと手当を受けることもしないわけで、これで足を失う人もいたとか。
人手不足がゆえに十分な支援が受けられないばかりか、それによってハンセン病以外のところで苦しむ羽目になってしまったのである。
ハンセン病自体で死ぬ人はそうそういなかったが、合併症をいかに防ぐか。そこが本当は大切だったのだが、そこまで考慮できていなかったというわけだ。
そんな状況だったのだが、太平洋戦争後、まともな治療法が確立され、ハンセン病は不治の病から治せる病気になった。
これは画期的なことで、国立療養所でも治療が行われ、だんだんと社会復帰できる人も出始めてきた。
というわけなのだが、実際のところ、不治の病が急に治せる病気になったら大変だったそう。
まず社会復帰しようにも過去の事情もあってなかなか偏見が取れなかったこと。
社会復帰を想定して療養所内に高校が作られるなどいう努力もあったようだが、なかなか簡単ではなかったようだ。
ましてや親戚からも見放されてしまったような人にとっては社会復帰しようもないと療養所を出ても戻ってきてしまうこともあったとか。
現在も国立療養所が存続していることにはそういう背景がある。
あと、治せる病気になっても隔離政策は継続せざるを得なかったというのもある。
当初は治療薬が注射薬だったこともあって療養所での入院治療を想定していたので、感染発見→療養所での治療 というフローは変わらなかった。
飲み薬ができて外来で治療できても、当初は療養所以外での治療体制が整ってなかったとか。
そんなハンセン病だが、実は1996年まで らい予防法 という法律があった。
これは隔離政策の根拠となっていた法律で、1907年制定の癩予防法を継承して、1953年に制定された法律である。
1953年にはハンセン病は治せる病気にはなっていたが、療養所への収容は治療のため必要だという理解で隔離規定は残されている。
そんな法律が1996年まで残っていたというのは驚くべきことだが、条文を見る限りでは運用でどうにでもなったんだろうな。
法律として存在していても使われることはない規定となって久しかったのではないだろうか。
療養所の環境改善の方が優先度が高く、法律の廃止は後回しになってしまったようである。
下手にこの法律をなくしてしまうと国立療養所が存在する根拠すらなくなってしまうという事情もあったようだ。
とはいえこの時代までこんな法律が残り続けたのはあきらかに落ち度があるので、政府も国会も謝罪広告を出すことになってしまったが。
日本でのハンセン病の歴史を見てみたわけだが、予想以上に簡単ではない事情が見えた。
上に書いたことは、当時の理解として全く間違っているとまでは言えないようにも思えることが多い。
ただし、当時の水準にしても落ち度があったと言わざるを得ないことも多いのだが。
今に比べると科学的な考察をするための道具が足りなかったというのもあるのかもしれない。
さらにハンセン病をとりまく状況の変化にうまく対応できなかったということも問題を拡大させたような気がする。
1953年の新法制定時の時点で治療に隔離は必要ないのでは? という話もあったようなのだが、
当時、療養所以外に患者を受け入れる施設もなかったこともあって手を付けなかったそう。
今にしてみればここで苦労しておくべきだったのだろう。
なお、現在の国立療養所の入所者はハンセン病の治療を受けた人で、もはやハンセン病患者ではない。
なので回復者という言葉を使うそうだ。治療法確立後のことを書いてある展示では多く見かけた言葉だ。
入所者の高齢化はかなり進んでおり、新たな入所者は想定されないので、入所者は減る一方である。
継続入所を希望する回復者の最後の1人が亡くなるまではつぶすにつぶせないのだが、どういう形で終わりを迎えるんでしょうね?
現行法である ハンセン病問題の解決の促進に関する法律 では国立療養所の施設をハンセン病回復者以外のために使うことが認められている。
多磨全生園では敷地の一角に保育園が作られたが、これは地域住民の役にも立つし、入所者にとってもうれしいことらしい。
さてはてどうなるのやら。けど多磨全生園がどうなろうともハンセン病資料館はここに残り続けることだけは確かかなと。