今回、徳島滞在から関西滞在を1週間伸ばす必要があったので、
その間どこに行こうかといろいろ考えていて、そこでふと思い出したのがキトラ古墳の壁画公開である。
これ、今までも奈良県内のいろいろな施設に行くたびにポスターを見ていたが、
予約制というので急に思い立っても難しかったのだが、あらかじめ思いついていれば容易である。
壁画公開は年間4回、およそ1ヶ月ずつ行われる。1年の1/3はチャンスがあると。
応募者多数ならば抽選にはなるが、必ずしも全枠埋まるわけでもない。空き枠は二次応募として前日ぐらいまで受け付けている。
その空き枠の状況はWebで見られるので、それを見て少し前に申し込んでおけばいいと。
というわけで申し込むと翌日にOKと連絡が来た。というわけで、飛鳥行きが決まったわけである。
飛鳥ってのは自転車で駆けずり回る人も多いですから、バイクってのはいいですね。
飛鳥周辺はたびたび足を伸ばしており、大概いろいろなところを見ているわけである。
そんな中でキトラ古墳だけでは面白くないが他に行くところはあるかと地図を見ていた。
そしたら桜井と飛鳥の間に談山神社というのが見えた。
どうも紅葉の名所らしい。が、まだ早いんだよな。ただ、興味を惹いたのでここに寄り道することに。
けっこうな山登りだろうが、さすがに電池は持つだろうと計算して、バイク担いで電車で桜井へ。
桜井駅を下車して駅前でバイクを組み立てていると「芸能創生の地」という碑があるのが目に入る。
そんな大げさなと思いながら、バイクを走らせ始めて南下していく。
すると途中に「日本芸能発祥の地 土舞台」と書かれた案内看板がある。
バイクを置いて住宅地の中をクネクネ歩くと、高台のなんてことない広場に出る。
どうも日本書紀によれば、この土舞台で伎楽を行ったということで、ここを起点に伎楽が普及していったと。
この経緯をもって、桜井市が日本芸能発祥の地と言っているらしい。ここで実際に伎楽をやったりしてるみたいですね。
もっとも伎楽というのはその後すっかり廃れてしまって、今では不明点も多いと言う話である。
ただ、これが現代の能楽につながっていることは確からしい。
談山神社の大鳥居が見えて、まさに談山神社へ向かう道に入ったことがわかる。
坂道が続き、電池の消費が激しいのは目に見えているが、ここから6kmほどというから大した距離ではない。
速度は落ちつつも、左にトンネルが見えてきた。
北は桜井、西は飛鳥、南は吉野、東は宇陀ということで、けっこうな交通の要所に思える。
歴史的にはどうなんでしょうね。飛鳥との往来はあったし、伊勢方面への短絡路に使われたりしていたそうだが。
ただ、宇陀方面の車道ができたのは2003年、飛鳥方面の車道ができたのは2009年と、いずれも比較的近年である。
このトンネルが見える八井内交差点から談山神社まで、距離はそこまでないが高低差がすさまじい。
全然バイクが上がらないのである。というわけで仕方なく押し歩き。
後で確認したところ、桜井駅付近が77m、八井内交差点が382m、7kmかけて300m上がっているわけですね。
これもけっこう上ったなぁと思うわけだけど、談山神社付近の標高はなんと503mほどに達する。
これを1.4kmほどで上がるわけで、平均斜度9%ぐらい? これだときついんだよな。
押し歩きを続けて談山神社の第1駐車場に到着、ここは無料で停めて良いらしい。
アップダウンが激しいがすぐそこではある。
さて、談山神社に入って最初にたどり着いたのが神廟拝所である。
入ると中央には藤原鎌足像があり、この神像を拝する建物なのだが……なんか変ですよね。
実はこれ元々は妙楽寺という寺だったのである。で、そこに仏像を置くかのごとく鎌足公像を安置したわけである。
元々、寺と神社の境目は曖昧なもので、後の時代に寺から神社部門が独立したなんてのはよくある話だが、
ここは鎌足公を祀ることを重視し、全体を神社にすることを決断、仏教寺院としての機能を喪失し、談山神社という名前になったという。
ちなみにこの談山というのは大化の改新の作戦会議が行われたことに由来するものだそう。
神社とみても寺とみても変なところだらけだが、完全に寺と思えるのが十三重塔である。
少し色づき始めた木々と合わせて見ると見栄えはするが、おおよそ神社の景色とは思えない。
本殿・拝殿は神社によくありそうな感じはするが、張り出した舞台はよく寺で見る光景である。
日差しもあってまだ青々とした紅葉は夏っぽい景色だが、これもこれでよかったかもね。混んでると大変だっただろうし。
さて、ここから飛鳥に向かって下っていくが、やはり急坂、速度を落としつつ下っていく。
飛鳥から上りだと八井内~談山神社付近と同じぐらいの勾配を延々と走ることになってたのだろう。
そしたら上がらないとずっと押し歩きだったのだろうか。時間の都合でこっち周りになったが正解だったな。
飛鳥歴史公園の祝戸地区、展望台で畝傍山とか見ながら持って来た昼食を食べる。
園路を押し歩きしながら、周りを見ると棚田が美しい。そろそろ収穫かね。
で、そこを通り抜けて再び走り出して、同公園のキトラ古墳周辺地区に到着、展示施設の「四神の館」付近に到着する。
駐車場に入ろうとすると、自転車は四神の館の横に停めてくれと。
自転車でよかったんだろうか? まぁ原付も同じところに置いてあったから原付としても正しかったのかも。
で、時計と予約を再確認してびっくり。ちょうど集合時間だった。時間を勘違いしていた。
危ないところだったと、足早に四神の館に入り受付で名前を申し出る。
さて、キトラ古墳は高松塚古墳とともに石室に壁画のある古墳ということで注目された。
調査を進める中で漆喰の剥落などの現地保存が難しいということで、一旦漆喰を剥がして壁画の保存を図ることになった。
展示室前で映像を見て思いだしたのだが、大昔にこのキトラ古墳のあたりに来ていて、
当時はまさに壁画の剥ぎ取り作業などしていたところで、その作業中に環境を保つための保護施設の建物に覆われていた。
無事に漆喰を剥がし終わったのが2010年のこと。壁画は修復、古墳は封をして復元、
これらの作業が落ち着いたのが2016年頃のことで、古墳はかつての姿を取り戻し、壁画も予約制で見られるようになった。
工場のような物々しい姿でなくなっただけでもよかった気はする。
ただ、壁画を石室外に出して四神の館での保管することにしたのは「当面の間」の措置とされている。
保存の目処が立てば石室内に戻し、現状復元をするという建前はある。ただ、当面の間が何十年続くのかは正直わからない。
さて、この秋に公開されているのは「玄武」のある北壁の壁画で、玄武って亀と蛇が一体化した空想の生物ね。
玄武については高松塚古墳にもあったのが、一部が削れてしまいよくわからない状態だった。
それがキトラ古墳の壁画にはよく残っていたので、補完できたということらしい。
10分間見られるのだが、わざわざオペラグラスまで貸してくれる。そんな遠くもないのに。
玄武自体はやっぱりよくわからん生き物だなと思うわけだが、下に十二支が描かれている。
薄れていてそれこそよくわからないのだが、子はネズミの頭が見えて、なるほどと。
この十二支というのもキトラ古墳の壁画に特有的なもので、北壁は十二支が3つ並んでいるのが確認出来る唯一の壁だったそう。
玄武というよりそっちの方が見所だったのかも。そんなわけで10分間飽きるぐらい見た。
キトラ古墳周辺地区はキトラ古墳以外にも史跡を内包していて、檜隈寺跡である。
今は敷地内に於美阿志神社があるが、その脇に石塔がある。これが檜隈寺の名残としてわかりやすい。
あと埋め戻されているが、瓦を作っていた窯も発見されているようですね。
本当にいろんなものがあるなぁと思うのだけど、ほぼ全て廃れたのが飛鳥一帯の遺跡である。
高松塚古墳周辺地区にも寄っておくかと、こちらも石室解体後埋め戻され、静けさを取り戻した高松塚古墳を見る。
ここも昔から物々しかった覚えがある。ましてや石室解体中は工事現場そのものである。
こちらの壁画も保存施設での公開が行われているが、こちら年4回で1週間ずつなので、キトラ古墳よりハードルが高い。
もっとも壁画の模写は高松塚壁画館でいつでも見られるので、古墳の理解という点ではそれでもよいと言える。
ゆくゆくは実物の壁画も見やすい形で見られるようにするのだろうと思う。
なお、こちらも建前上は「当面の間」の保管だが、それが何十年続くのかはわからない。
で、このあたり見ていて知ったのだが、中尾山古墳というのがあって、石室が八角形で棺が入らない、すなわち火葬墓なんだそうで、気になって見に行った。
外から見るとそんなに大きくはないが、言うても常識的にはデカイ墓である。
どうもこの中尾山古墳は古墳時代の終焉を表すものだそうで、火葬を取り入れたのもそのためだそう。
なお、ここは史跡指定されている古墳だが、この時代に火葬される人は相当高貴な人であり、
具体的には文武天皇では? という話もあるのだが、文武天皇陵は別に存在する。
こういう天皇陵らしいが天皇陵として管理されていないという墓はしばしば存在する。
帰りはそのまま北上して耳成駅でバイクを畳んで電車に。
この駅は踏切の両側に駅舎がある駅なので、バイクを担いで運ぶには好都合。
それにしても「飛鳥・藤原の宮都」は世界遺産登録されるのかね。
かなり時間はかかったが、とうとう今年に世界文化遺産への推薦が行われた。
時間を要したのは藤原宮跡を特別史跡でカバーするのに時間がかかったから。地権者の理解も得てほぼカバーできるに至った。
長年慎重に進めてきた世界遺産構想、一発合格を狙っているのだが果たしてどうだろう。
課題はわからないところが多すぎるところかもしれない。