初めての献血者を見る

ラブラッドで献血バスの来る場所を調べると近所に来るらしいので、

そこを狙って全血400mL献血をしてきた。

雨の中では来る人もまばらだと思ったが、意外と待たされた。

なぜかというと前の人が初めての献血だったからである。

なにしてるんだと首元を見ると赤いストラップを付けてたので。


初めての献血なんて何回前だよと調べたら78回も前だった。

今はなき大阪の日本橋献血ルームである。

そのときは初めての献血者の赤いネックストラックもなかったけど、

他にも違うことはあって、指先から採取した血液で血液型判定することである。

これが大変そうで、普通なら血液は1滴取れればいいんですよ。

1滴というけど、プレパラートに毛細管現象でごくわずか吸い上げられる分でよいので、

少し血液がしみ出すぐらいの量で足りてしまう。

でも、血液型判定にはしっかり3滴集めなければならない。

プラスチックの棒みたいなので集めていたが大変そうで手を少しでも下げていた。

無事に血液型の仮判定が出来て、その血液型のラベルを貼っていた。


そんなことになるぐらいなら、初めての献血の人は腕から採血すればいいじゃないかとも思ってしまう。

そう、昔は全血献血の検査時にも腕から2mLぐらい取っていた。

(そのさらに昔、初流血除去の導入前はさらに検査用の血液を取ってたらしいが)

そこから1滴落とすのも3滴落とすのも何も変わらないわけである。

でも、それはよくないなと思うわけである。

針を刺す回数は1回でも減らしたいというので指先採取にしたのである。

初めての献血者はなおさらのこと。初めてだけ腕から取りますねなんてのはよくないと。


そこからの自分の採血はスムーズなものだけど。

もはや採血してた時間より、その後処理の時間の方が長いんじゃないかって。

で、終わって休憩していたら、その初めての献血者の人が献血カードと記念品を渡されていて、

でも献血カードって廃止予定だよねと思ったら、ラブラッドアプリの導入方法の説明書を渡していて、

休憩するうちにインストールしたら記念品やるよというのでインストールしているようだった。

昔からメール会員に登録したら記念品やるよとかあったけどさ。


ラブラッドは当初は「複数回献血クラブ」の全国統一愛称だった。

そもそもこの言い方に歴史を感じるのだが「複数回献血」というのは年2回以上の献血を指す。

一般人でも年1回は献血するだろうけど、そこから一歩進んで年2回以上献血してということである。

年1回献血するだけでも上等だろうと思ってしまうけど。

とはいえ、さっきもちらっと書いたが、来年には献血カードの新規発行・更新は停まってしまう。

ラブラッドアプリがない人の献血

次回献血をスムーズに行うにはラブラッド入会・アプリ導入が必須である。

すなわち複数回と言わず年1回でもラブラッドは欲しいし、なんなら初回献血前にもあった方がよい。


そうなんです。今はラブラッドは初回献血前に入会することもできる。これをプレ会員と呼ぶ。

目的は問診入力と予約のため。確かに電話で予約する時代じゃないよな。

この場合は献血カードの発行自体が行われないとみられる。

もっともそういう人はあまりいないと思う。

だいたいの人は献血後にラブラッドってあるんですけどと言われて登録するだろうから。


おそらく献血カードの新規発行が停まると、

初回献血者にはラブラッド登録の手引きみたいな名目で献血者コードを書いた紙を渡すんじゃないか。

それを見てラブラッド登録をするのが本線でしょうね。

どうせ献血後の休憩時間は暇するわけだし。

登録しなければ次回以降は氏名・生年月日などで検索することになりますが。

元々献血カード持ってる人は更新されない献血カードでも献血者番号はわかりますけど。


雨ということもあり来場者はまばらだったが、自分の後ろにも初めての献血者がいたみたいですね。

そういう形で献血の輪が広がればいいですよね。

年2~3回400mL献血して、その間に成分献血挟むようになってきたら、

それはすごいけど、年1回の400mL献血でも上等ですよ。

これだっていろいろ条件が揃わない人は多いのだし。

トキの島からの帰り道

今日は天気が悪くなりそうだが午前中は比較的よいらしいので午前になんとか詰め込もう。

というわけで宿から両津に向かって走っていく途中でいくつか寄り道していく。


ところで昨日も書いたが佐渡はけっこうな都市だが、どこが行政の中心なのかというと難しい。

歴史的には金山で栄えた相川なのだろうし、事実上の玄関口で2004年の合併前から市だった両津かもしれない。

今は佐渡市という1つの市になったから覆い隠されているが、意外に難しい話である。

佐渡市は合併後の市役所を市域のほぼ中心という理由で金井に置いた。合理性なんですかね。

途中に佐渡警察署の立派な庁舎があったが、合併後に両津と相川にあった警察署を集約したもので、合併前の真野町にあたる。

離島という事情もあり、運転免許センターも併設している。

途中「――駅前」と書かれた広告があり、佐渡に駅なんてあるんかいなと思ったら、

「畑野駅前」という交差点があり、え!? と思ったらバスの待合所があった。バスの駅ということらしい。

鉄道小荷物の取扱所ということで駅と呼ばれていたらしい。実際に鉄道があったわけではない。


ずんずん走ってたどり着いたのは新穂地区にあるトキの森公園である。

トキの繁殖・放鳥の拠点になっている施設である。

佐渡といえば日本で野生のトキが最後までいたところであり、現在は野生復帰の拠点として知られる。

「トキふれあいプラザ」というギョッとする名前の施設があるが、別に触れられるわけではない。

ガラス越しだが、ここまでトキに近づいて観察できる施設はここぐらいなのだろう。

トキの独特な色合いとか、生まれて間もないヒナに餌を与える様子などがみられた。


展示施設ではトキ絶滅にいたるまでの経緯や、その後の野生復帰の経緯が紹介されている。

昨日、トキ絶滅の背景には農薬があると書いたが、実はその前にも重大な問題があって、

それが燃料源として山林の伐採が進んだことだった。一昔前はハゲ山だらけだったというがそれが問題だった。

これによりトキが越冬できる場所が減ってしまった。そこに圃場整備と農薬という農業の近代化が重なり追い詰められたという。

あと乱獲も問題で、羽根かと思ったら肉目的というのも大きかったらしい。滋養効果があると言われたが、そこまでおいしいものではなかったそう。

ともあれトキが越冬するにも苦労する中で、1968年に幼鳥のトキを1羽捕獲する、結果的に日本最後の野生産トキとなった「キン」である。

1981年に野生トキ5羽の一斉捕獲があり、人工下での繁殖に舵を切るよりだいぶ前に捕獲されていた1羽である。

結果的にはキンを含む日本のトキは子孫を残すことはできなかったのだが、キンのおかげでトキの研究が進んだ側面はある。

人工繁殖するにもトキを知る必要があって、そのためにクロトキなど他のトキの仲間の飼育もしていたという。(外で展示されていたのはその名残)


1981年に中国・陝西省で絶滅したと思われていたトキが発見され、人工繁殖での保護に取り組むとなったとき、

佐渡でのトキの研究成果がもたさらされ、日中間でトキの交換をしてペアリングも行われた。

あと、能登で捕獲されたトキも佐渡に来て繁殖に取り組んだ。

結果的には中国産のトキの子孫が中国・日本・韓国で野生復帰を果たしたわけだけど、

そこには佐渡でトキを守るために尽力した人たちの努力があり、その起点はキンの捕獲なんですね。

トキの保護に国境はないと書かれていたが、現場で尽力した人こそそういう思いは強いんだろうな。

野生復帰にあたってはハゲ山を林業で回復させ、水田を餌場として利用できるように冬季湛水・減農薬などを行っている。

2016年には野生下でのトキの巣立ちがみられ、佐渡には500羽ぐらいのトキがいるらしい。


近くに加茂湖と佐渡空港があるので少し眺めて両津港まで向かうことに。

加茂湖はイカダが多く見られたがカキ養殖が盛んらしい。いかにも汽水湖だが、治水のために開削する前は淡水だったらしい。

佐渡空港は高台にあるなぁぐらいの印象だが、ここから成田までの便が飛ぶ日が来るんだろうか。

拡張計画もあるらしいが、周辺の農地をだいぶ削らないといけないから大変なのかもなぁ。

そんなこんなで走って行くと両津港に到着。立派なフェリーターミナルがある。

ここまで雨に遭わずによかったよかった。

徒歩客も多く、島の玄関口だなと感じる。自動券売機で2等乗船券と手荷物券を買って乗り込む。


バイク担いで船に乗り込むと、ここに置いてと案内された。船内に「輪行袋置場」というのがいくつか設定されているよう。

スーツケースを持っている客も多かったが、車両甲板への階段室付近に並べられていた。

さて、どこに居座るかと中央付近の船内案内を見て、2等室の一部に「禁煙」と書いてあると思って、

そんなの客室禁煙なのは当たり前……と思ってよく見ると「禁酒」と書いてあった。禁酒!?

確かに心当たりはあって、直江津~小木のフェリーでも1区画占有して酒盛りをしているグループ客がいた。

グループの中には騒ぐんじゃないと戒める人もいたけど。

と、こんな具合に船で酒盛りするとうるさくなりがちなので、それなら静かに酒盛りしろと言うのが普通の考えである。

ところがなぜか佐渡汽船は静かに乗りたい人のために「禁酒室」を用意したわけである。禁酒室以外の光景は怖くて見なかったけど。

酒造りが盛んな新潟県、酒豪も多い話は聞くけれど、まさかフェリーまでこんなことになっているとは。


今回乗船したのは おけさ丸、1993年から就航している。わりと年季が入っているのはそのためか。

船内にはゲームコーナー、軽食売場もある。ゲームコーナーってのが時代を感じるけど。

2等はすべてじゅうたん席である。イベントプラザのテーブルに居座る人もいるんだろうけど。

1等には椅子席もあるようで、降りるときに案内所の等級変更の掲示を見たら、1等チェア席は×マークが付いていた。

ちなみに2等が2970円に対して、1等は5030円、椅子で快適に乗れるなら払いますかね。

極端に混んでるわけでもないので、2等室でゴロゴロ寝ている人もいるけど、壁沿いに座ってタブレットPCで読書などしていた。

しかし離島航路というよりは本州~四国~九州のような本土間を結ぶカーフェリーの趣である。


新潟港に到着して、バイクを担いでフェリーターミナルにでる。

ここでバイクを組み立てるが、空模様はどうかと見てみるとパラパラ降っている。

このぐらいで距離も短いのでカッパは上だけでいいかと準備をして出発、ちょうどフェリー接続のバスがでた直後である。

港と新潟駅はちょっと離れている。普通はバスで往来する距離だが、当然のことながら自走である。

おそらくバスと同じルートで行ったんじゃないかな。というかほぼバスの後ろを走ってたので。

どうせバイクなら南口(こちらの方が新幹線に近い)に直行するルートを通ればよかったなと後で思ったけど。

新潟に来たのは2016年以来、このときは万代口バスターミナルはバックで入るバスターミナルだったのを覚えている。

当時、在来線の高架化事業が動いており、2022年に全面高架化、2023年に高架下のバスターミナルができた。

その高架下のバスターミナルを見るように歩道を押し歩き。当たり前だがバスターミナル内は一般車走れないので。

一般車乗降場は南口しかないんですね。そういう点でも南から入るべきでしたね。


上越新幹線は意外と本数が少なく、というか大宮~東京が混みすぎで各方面に割り振れる本数が限られてるんだよな。

乗れたのはフェリーの到着からおよそ1時間後のとき号である。だいぶ余裕あったんだよな。

普通に考えたら大宮まで乗るところだが、熊谷だと1ランク特急料金が下がるので。

それ以外のメリットもある。大宮より熊谷の方が乗換がコンパクトということである。

この頃、関東平野ではひどい雨だったが、到着する頃には小康状態になっているはず。

そんなことを思いながら乗換をして最寄り駅に到着したときには、すでに雨はあがっていた。

バイクを組み立てて、すぐ作れる夕食の食材と明日の朝食を買ってから帰宅。


いろいろ反省点はあるけれど、佐渡という着眼点はそれはそれでよかったんじゃないかな。

広い島なので2泊してもよかったかもしれないが、連休の狭間でいろいろ苦心したところもあるので。

その分を上越泊に置き換えたというのが実際のところですね。上越もそれはそれで行くべきところだったので。

佐渡金山のルーツを探る旅

ホテルを6時ごろにでて、バイクで少し走って直江津港へ。

ShinEtsuとかかれた看板を見て、信越化学の本拠地でしたねと。

信濃の水を使った水力発電と越後の石灰石を使ってカーバイド製造を始めたことにルーツがあるが、

今はそういう枠組みに留まらず、半導体関係の材料を作っている印象が強いんじゃないかね。

で、直江津港について窓口できっぷを買う。乗船待ちの車の列にはバイクもちらほら。

あくまでも徒歩客なのでそちらには並ばず。ただし折りたたみ自転車を袋に入れて乗る場合は手荷物運賃550円が徴収されるルールになっている。

それでも自転車の料金よりはだいぶ安いし、原付の料金と比べればなおさら。

で、運賃をSuicaで払おうとしたら、手間取った上で「人の運賃はSuicaで払えるのですが、手荷物運賃はカードか現金しか使えなくて」と。

なんだそりゃ。結局全額をクレジットカードで支払った。3730円なり。


さて、直江津~小木航路には こがね丸 というカーフェリーが入っているが、佐渡汽船に来たのは2023年と最近である。

北陸新幹線が上越に到達する少し前、双胴船の高速カーフェリー「あかね」が導入された。

従来、1日1.5往復しかできなかったが、高速化されたことで2往復できるようになり、新幹線と合わせて佐渡が近くなると。

こんな触れ込みだったのだが、双胴船が高コストということで、採算改善のため2021年にジェットフォイルに代替された。

とはいえ、車が乗れないのは生活航路として困るので、代わりとなるカーフェリーを中古で探すことになり、

豊後水道で使われていたフェリーが新造船に代替されるということでこれを購入、佐渡汽船にやってきた。

これが現在のこがね丸の正体である。船内に入るとあれこれシール貼りされているのはそのため。

なお、こがね丸は速力19ktの普通のフェリーだが、あかね時代と同様に1隻2往復体制を維持している。

そのしわ寄せが1便目が直江津7:10発、4便目が直江津20:05着というところに現れているのだろう。

それにしてもこの船、この距離なのに基本的にじゅうたん席しかないんですね。

パブリックスペースのソファーに座ってる人も多かったけど。この距離だと椅子席の方が嬉しいよね。

調べたらこの船と入れ替わりに豊後水道にやってきた「れいめい丸」は特急列車のようなリクライニングシートが搭載されてるらしい。


そんなこんなで小木港に到着、ターミナルを出てバイクを組み立てて出発。

ところで直江津~小木、新潟~両津はともに国道350号を構成する航路ということになっている。

佐渡島内の両津~佐和田~小木の道路を国道事業で整備する名目で、新潟~上越の国道ということにしたらしい。

そんな国道350号のサインは港近くに立っていた。その近くには国土地理院の「小木検潮場」という施設が。

佐渡島の標高を決めるために潮位を測っていたのだが、近年は標高の定義の見直しもあったりして標高の定義に直接関与しているかはよくわからない。

小木からはわりと急な上り坂が続く。沿線には果樹園が多くあったけど、柿ですかね。

また下って海沿いに出る。


佐渡といえば金山ということで、世界遺産登録されたことについていろいろなところでアピールされていたが、

一般的には相川金銀山のことを指すのだろうが、西三川砂金山というのがあり、こちらの方が古いそう。

ちょうど小木から山を越えた先が西三川ということで、これが小木からの佐渡入りを選んだ理由の1つである。

というわけで国道から少し入ったところに「西三川ゴールドパーク」というのがあるが、

これは砂金採りの体験施設という色合いが強くて、ここ自体は実際に砂金を採取していたところではないらしい。

実際にはこの先の方らしく道を進んでいく。他の車は全く見なかった。というか車で行くところではないのか。

西三川砂金山というのは砂金を含んだ土砂からなる山がいくつかある地域ということになる。

砂金という形で金が直接的に得られるので、平安時代には発見されていたらしい。

本格的に金を集めるには、山を崩して、土砂を水で洗って集めるということをやる。これを大流しと言っていたそう。

水を確保するためにため池や水路を作って、どんどんと山を崩していったわけである。

そんなこんなで砂金採取は1872年まで続いたという。その後、土を洗ったところやため池は田に転用された。

ちょうど田植えをやっていたが、一見なんてことのない水田の広がる光景は重要文化的景観「佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観」に指定されている。


と、これはこれで佐渡金山の古い歴史を知ったのでよかったのだが、上り坂続きで電池消費がひどく、ここで電池交換になった。

想定より10kmぐらい手前で電池交換になってしまい、これはまずいなとなった。

さらにここから真野へ向かうルートは急坂で、非力なバイクにとっては進みにくいこともあり、急坂は押し歩きで上げて進むということに。

眺めはよくて雪を被った金北山はけっこうな景色である。

ずんずん走って行って佐渡博物館なんてのがある。どうも市の博物館らしい。

この博物館は佐渡の自然史と佐渡ゆかりの美術品を展示している博物館である。

美術品は佐渡出身の画家の作品が多かったが、佐渡が題材になっているものもあった。


佐渡島というとS字状の形状が知られているが、元々は火山活動でできた2つの島だった。

この火山活動の中で金銀を含む鉱床が作られ、これが海で洗い流されて堆積したのが西三川砂金山、

そのまま鉱脈として残ったのが鶴子銀山・相川金銀山ということらしい。

その後、2つの島の間は湖になったが、加茂湖を除いて土砂で埋まり1つの島となっていった。

新潟県最大の湖だという加茂湖は流入する土砂が少なかったので湖のまま残ったのだという。

生物という観点で言えば、やはりトキですね。剥製と羽根が展示されていた。

佐渡は日本で最後のトキの生息地だった。残念ながら国内産のトキは人工繁殖ならず絶滅したが、

中国のトキを繁殖させて野生復帰させる取り組みはそれなりに軌道に乗っている。

トキが絶滅に至る流れは、コウノトリとも重なるが、農薬の使用というところがあったようだ。

玄武洞とコウノトリ

トキの野生復帰にあたっては農薬使用量の削減などの取り組みを行ってきたとのこと。

庭にはロックガーデンとして佐渡の様々な石が展示されている。佐渡だけでこんなにいろんな石があるんですね。

日本海や島のなりたちに関わる重要な石が並んでいて壮観である。


さて、ここから相川へ向かう。相川までは緩やかな上り坂を進むとトンネルがある。

トンネルを走るのは怖いけど、普通の自転車よりは常時点灯なので他の車に気づいてもらいやすいかな。

トンネルを抜けると海とけっこう立派な市街地が見える。

この相川は金山で栄えた町で、江戸時代には5万人ぐらい住んでいたらしい。今の佐渡市の人口と同じぐらいじゃないか。

このため行政機関も多く置かれたのだが、今となってみれば佐渡の中心地とも言いがたい立地である。それでも一部の役所は相川にある。

きらりうむ佐渡にバイクを停めて、まずここで佐渡金山についての展示を見る。再現映像を多く見ることができる。

西三川砂金山での大流し、江戸時代と明治以降の相川金銀山の採掘・精鉱がわかる。

江戸時代には精錬して小判にするところまで佐渡でやってたんですね。国際貿易に使用され世界に渡っていたという。


というわけで地図をもらって相川を散策していくことに。

まずやってきたのが佐渡奉行所跡、ここは奉行所の役所部分と選鉱を行う勝場(せりば)が復原されている。

この時代の役所というのは現代の検察・裁判所にあたる部分の占める割合が高く、

御白洲で罪人になりきって記念撮影したらどうですかみたいなことも書かれていた。

勝場ではとにかく岩を砕いてすりつぶして比重でより分けるというのを繰り返し繰り返しやっていたという。

最終的には金色をした金の粒か、黒い金銀化合物の粒が出てきて、これを鉛を使って精錬していたという。

鉛? と思うが鉛に金銀を含む粒を溶かして灰に吸わせると、金銀だけ吸われずに残るらしい。これを灰吹法という。

このための鉛の備蓄が文献で行方不明となっていたが、奉行所跡の発掘調査で見つかり、レプリカが展示されていた。

この後、塩を利用する焼金法などで銀を分離することで小判の材料となる金を得ていたという。

江戸時代に採掘が進むにつれ、金鉱石の品位が下がると選鉱の負担が重くなり、採掘が続けられなくなり……

当時の手工業的な方法の難しさが表れていたようである。


相川には近代的な役所の跡もあり、登録有形文化財になっている相川税務署や相川拘置支所を見た。

なんと相川拘置支所は中に入って見ることも出来た。いろいろ朽ちてるから注意してねとはあったが。

裁判所があれば拘置所は必要で、現在も新潟地方裁判所佐渡支部と佐渡拘置支所はともに佐和田地区に存在する。

佐渡奉行所跡の少し下のあたりに北沢浮遊選鉱場跡がある。相川に来てここが一番人多かったな。

浮遊選鉱というのは現代の様々な鉱山で使用されている。界面活性剤を入れてかき混ぜて泡を作ると、泡に金属鉱物が着いて集まる。

これを集めてシックナーという水槽に流し込んで固形分を取り出したものが精鉱として出荷される。

日本で銅などの金属精錬を行っている工場には精鉱の形で入ってきている。

明治以降の遺跡という点では大間港という、資材搬入などのため整備された港がある。

岸壁の作り方がコンクリートができる以前の作り方という点で特徴的らしい。


と、ここから戻るわけだが、トンネル近くまでは押し歩きで上げて、グライダーのように降りて進む。

ところで佐渡というのは都市的な光景が多く離島っぽくないと言っていた人がいるが、

佐和田地区の国道沿いを見ると普通に都市郊外という感じである。

先ほども書いたが、相川はけっこうな大きな都市だったわけだし、金山がなくなって重心は変わっても都市的なんだろう。

日本の離島(本土5島以外の島)で一番人口が多いのは淡路島だが、架橋された離島である。天草下島も同様。

その次に多い奄美大島はジェット機もやってくる島、佐渡島は船頼みの離島にしては飛び抜けて人口が多い。

広さもあるわけだけど、金山がなくなっても金山の島なんだなというのは実感した。


と、けっこう粘ったが電池切れ、宿まで6kmぐらい押し歩きするハメに。

全然ダメですね。急坂を押し歩きしてこれだから、電池パック1本分ぐらい足りなかったかも。

今日1日に詰め込みすぎたことはあるのだが、それにしても行動範囲にバイクの電池が追いついてない。

西三川に行って電池を減らしたのは敗因だったのだろうけど。でも、それがなくてもやっぱり足りないわ。

でも、やはり佐渡金山のルーツは知っておくべきだったし、江戸時代の相川を知ることもできたし、概ね満足かな。

佐渡金山といえば明治以降の佐渡鉱山なのかもしれないけどね。でもそこまでは時間的に回るわけがない。

明日リベンジというのも考えなくはないのだが、明日は天気が悪化することもあるので、もういいかな。

佐渡へ行くため上越に行く

この連休、果たしてどうしたものかというのは悩み所だった。

というのも4/27と5/4は東京で用事があるのでここは遠出できない。

4/28は稼働日だが、27日に帰ってくるのは遅いから仕事にならない。ゆえに休暇。

29日からは有給休暇計画取得日を含めて連休に入ってしまうからどうやっても休み。

前にも後ろにも付けられない中で何かやることはあるだろうか。

そう思って日本地図を眺めていると、佐渡島が目に入った。距離的にも案外近いしよいのでは。


そんなこんなで計画を練っていた。

一般的に佐渡へは新潟港~両津港の船を使うのだが、直江津港(上越市)~小木港の船もある。

今回、往路は直江津からの船を使うことにした。

理由は2つあって、1つは佐渡での目的地がこちらの方が近かったから。

もう1つはJRE POINT特典を利用する場合、上越の方が有利だったからというのがある。

JRE POINT特典、手持ちのポイントだと200kmまでの区間に4620ポイントで乗車できる特典が使える。

200kmという距離、大宮~新潟には全然足りなくて、大宮を起点に取れば浦佐、新潟を起点に取れば上毛高原と、これでは全然使い物にならない。

大宮~上越妙高もやはり足りないのだが、上越妙高を起点に取れば本庄早稲田までは使える。

本庄早稲田って高崎の1つ大宮寄りにある新幹線単独駅で、それは高崎~上越妙高で新幹線が使えるという意味……

と、確かにそれでもよさそうなのだが、本庄早稲田駅の近くの地図を見て、これはバイクで行けるのでは? と思った。


というわけで今日のスタート地点は西武の駅である。ここでバイクを畳んで電車に乗って本川越駅まで。

本川越駅から東上線の川越市駅までは近いが、畳んだバイクを持って運ぶには遠い。

なので少しだけど、一旦バイクを組立て、数分自走して、また畳む。

東上線に乗ったら小川町で乗り換えて終点の寄居まで。ここまでそう苦労なく移動できる。

地図を見て気づいたというのは本庄と寄居がそう遠くないということである。

自転車で走っておよそ1時間、15kmほどの旅である。

そんなにおもしろい話はなかったんだけど、トラクターが横切っていて農作業日和だなとみていた。

本庄早稲田駅近くに大きなスーパーがあり、ここで昼食を買って駅へ向かう。


本庄早稲田駅は新幹線単独の駅で、ゆえにそんなに賑わっているような駅ではない。

早稲田というのは早稲田大学の高校やセミナーハウスが至近のため。駅の西側すぐ近くらしい。

実際、学校関係者の利用が多い駅だという。

あとが本庄市周辺でP&Rでの利用も多いそう。これは新幹線単独駅あるあるですけど。

新幹線単独駅に近距離券売機があるのかーと思いながら、ICカードをタッチして改札を通る。

新幹線eチケットを使うのは初めてだったかな。座席番号を印字する端末があるのでタッチして印字する。

振り返ると改札の出口前にICカードチャージ機があるので驚くが「タッチでGo!新幹線」利用者を想定したものか。


本庄早稲田~上越妙高は直通とはなかなかいかず、高崎駅で一旦降りて後続に乗換。

時間帯によるが10分ほどの待ちで乗り換えられた。

乗り込んで、バイクを最後列にとった座席の後ろとか荷物置き場に置こうと思ったら、

大きなスーツケースが荷物置き場、座席の後ろにぎっしりと置かれていた。なんじゃこりゃ。

仕方ないのでデッキに置いた。長野で外国人グループが4個ぐらい持って行って、空いたところに押し込んだけど。

東海道新幹線と異なり荷物スペースが担保できる仕組みが無いので、あふれかえってたようである。

本庄をでてから、高崎での乗換含めて1時間、上越妙高駅に到着。山を見るとまだ雪がちらほら。


上越妙高駅、一応は境界駅ということで少し立派な駅である。

普段は折り返しする列車もないし、乗務員交代も長野だから、実態は大したことない中間駅だが。

その昔、長野~新潟の移動時に乗換で利用しているが、外に出るのは初めて。

改札前の通路は自転車も押し歩きで利用できる道路らしく、エレベータに押し歩きで利用するよう指示があった。

外に出ると融雪パイプからでたサビが目立ち、雪国だなぁと。

というわけでここからバイクで走り始める。


上越市というのは越後を上越・中越・下越と3分したときの一番西の上越から来ている。

なぜそんな雑な命名なのかというと、1971年に高田市と直江津市が合併したときの命名だからである。

というわけでまずは高田へ向かうことに。走って行くとお堀が見えてきた。これが高田城址公園である。

高田は城下町として役所が多くあるため、現在も国の役所では高田とついた役所がしばしばみられる。

それにしても立派な城跡である。桜の名所らしいが、よく整備されているのが印象的である。

復原建物の三重櫓があり、わざわざ見るものかと思ったが、歴史博物館とセットなら100円ぐらいの差なので見ていくことに。

説明の中で印象的だったのが石垣ではなく土塁で囲まれた城であるということで、

確かに改めて見てみるとそうで、その背景には短期間で築城されたという事情があるそう。

まぁ眺めはそれなりによい。といっても往時の姿はかなり失われてしまっているのだけど。


さらに詳しいところは上越市歴史博物館で紹介されている。

平成の大合併後の上越市を意識して展示内容を作り直したとは書いてあるが、多くが高田の歴史である。

そもそも上越には越後国府があって、上杉謙信の居城だったという春日山城という巨大な山城があった。

この春日山城の代替として福島城が海沿いに作られたが、まもなく移転され高田城がつくられた。

こんなところからもわかるが歴史的にはこのあたりが越後の中心地だったのだという。

やはりそれは陸海交通の接点として重要だったということで、それが直江津ですね。

高田城のお堀はもともとこのあたりを蛇行していた川の流路を変えて作ったものだという。

えらく巨大なお堀だが、元々あるものをうまく活用していたんですね。

歴史の最後の方には石油採掘の話があった。現在でも新潟県ではガス田・油田が存在する。

なんと江戸時代に手掘りで石油を採掘していたのだという。そんな時代があったとは知らなかった。

あとは雪国ということで雪下駄とかスキー板とか人力そり(雪上の人力車ということ) とかそんなのも展示していた。

高田は日本におけるスキー発祥の地で、オーストリア式スキーと書かれていて、アルペンスキーかと思ったが、ストックが1本なんですね。

とはいえ、かかとが固定されるという点では現代の主流であるアルペンスキーの原点とは言える。


ここで春日山城のことが気になって地図で見てみると、バイクで行けば16時ごろには着いて散策できそう。

というわけで走って行く。こういう機動性の高さはバイクを持って行っているからこそ。

ふもとにある「春日山城跡ものがたり館」にバイクを停めて、案内図をもって散策を開始した。

山城だと言ったが、ふもとの広場も城跡で土塁を築いて何か建物があったらしい。

城としては強固だったかもしれないが、政治には不便で、ふもとにも建物を作りながらやっていたが、

やはり難しいということで福島城を経て高田城への移転することになったのだろう。

春日山神社に向かって進んでいくが、歩道のない道を歩かされる。

自動車で来る人が多いんだろうけど、これはいかにという感じである。

バイクで上がればよかったじゃないかって? この急坂では電池消費がひどすぎるだろうし……

とにかく山肌に沿ってたくさん建物があったことがわかる。巨大な城である。

本丸跡からの眺めはとてもよい。他の城との関係に着目した案内が置かれていたが、

実際に本丸から一番目に着くのは上越火力発電所なのだが……


ここら辺まで来ると直江津の市街地まで少し。

というので直江津の中心にドカンとあるエルマールというショッピングモールに来た。

ここの2階は無印良品がほぼ占有して、書店もフードコートも無印である。

イトーヨーカドーの撤退後、無印良品が大きく展開し、エルマールの中心的存在になっている。

100円ショップで買いたい物があったから来ただけなんですけど、すごいところだなと。


そんなこんなで夕食を食べて宿に到着。

明日は佐渡に渡る船の都合、朝が早いので「無料朝食」ってのは無理だなと思ってたのだが、

弁当詰めて渡せますよと言われて、これは意外な展開。

バタバタしそうだなぁとは思いましたけどね。

はじめての夢洲での万博

昨日は奈良にいって、親に厄介になり、今日は大阪・夢洲へ。

というわけで鶴橋で地下鉄に乗り換えるが、駅には小学生が。

今回の万博、小中学校での来場も多く予定されており、中央線には専用列車の設定もある。

背景には夢洲へのバスの乗り入れが大変だからということがある。

ところがそれを利用するには中央線の駅まで何らかの方法でいかねばならず、

それは千日前線だったということらしい。引率も大変である。


阿波座駅というのは中央線の乗換駅としてはマイナーな方か。

大増発もあって車内は座席が埋まって立ち客がちらほらいる程度。

弁天町でドサッと乗ってくるかとおもったが、そこまでのことはなく。

しかし、大阪港・コスモスクエアとそんなに降車もなく夢洲というと万博行く人は多いなとなる。

夢洲駅についたのは9時50分頃、9~10時の予約だったのでちょうど終わりがけ。

案内看板では9時の人は右、10時の人は左、11時の人は広場で待機なんて記載だった。

9時の列もそれはそれで並んでるけど。

初日の反省としてQRコードを刷ったり保存している人も多く、そこで詰まることはないようだった。

手荷物検査はどうしょうもないけど。旅行の荷物全部持ってるからPCをトレーに出したり面倒である。

身軽なのはよいことはわかってるのだが、こうならざるを得なかった。


会場を歩く上でのコツは”C”などのアルファベットである。

各施設には”C04”のような番号が振られているが、頭文字のアルファベットが大まかな位置を表している。

会場内の床にはこの記号で方向を示していることが多い。これさえあれば歩く向きはだいたいわかる。

東ゲートエリアは”E”、西ゲートエリアは”W”なので、これは帰路のサインでもある。

ただ、予約画面とかにもこの記号って出てこないんですよね。

マップというよりはこの記号の対応表が欲しいですよね。


リングの内側には各国パビリオンとシグネチャーゾーンがある。

当日予約ですぐに取れた「いのち動的平衡館」に行く。

このシグネチャーゾーンにあるシグネチャーパビリオンというのが、

「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマをいろいろな切り口でみて作られたものである。

「いのち動的平衡館」は生命のダイナミクスに着目したものである。

これって1970年の大阪万博で言えば太陽の塔を含むテーマ館に相当するものだよね。

それが8つの切り口で存在しているわけですね。

このシグネチャーパビリオンは予約制がかなり徹底されているので、行列を成しているのは見ない。

予約枠も多いので当日でもわりととれるが、予約がないと外から見るだけになる。

この後「EARTH MART」に行ったがここは食という切り口で、今の食、未来の食をいろいろ表していた。


万博と言えば各国パビリオンだが、これがけっこう行列を成してる。

予約制が徹底できているのはオランダ館ぐらいだったんじゃないかなぁ。

予約制がなくて並ぶしかないところが多数派である。

並んでいるように見えても、次のスロットを待ってるだけというのはあるけど、

わりとしっかり並んでるパビリオンは多そうだった。

時間帯によっては多数の国が入居するコモンズ館の入口すら行列を成してた。

これ、比較的空いてるはずの前半の平日なんですけどね。

しばらくはサクッと入れるパビリオンを優先してみていく。


そうこうしてるうちに腹が減ってきた。

各国パビリオン、入場列も長いが、レストランの列も長い。

そんな中でレストランの列が短かったのがマレーシアである。

後から思ったけどマレーシア館のレストランほど多客対応の体制のあるパビリオンのレストランはなかなかないんだろう。

多客対応のオペレーションがしっかりしてるのはリング外側の飲食店なのだろう。

あるいは大量のキッチンカー、キッチンカー博覧会じゃないかというほどに数が多い。

各国パビリオンのレストランは万博だからこその体験ではあるけど、

それをアテにすると大変ですね。パビリオンめぐりなら弁当持参が一番か。

持参した弁当食べている人はけっこう多かったですね。学校団体が多いのもあっただろうけど。


行列を避けながら回ってたけど、さすがに腹をくくらんとならんかと、

17時ごろにアメリカ館の行列に並ぶ。行列の長さのわりには流れているパビリオンだったとは思うけど。

待機スペースではアメリカの都市・自然が映像でいろいろ流れていた。

アメリカ館の内容はさすがで、日本にとっても縁深いアメリカのことがいろいろ紹介されていた。

スポーツのところでドジャースで活躍する大谷選手がクローズアップされるのは必然か。

途中からは宇宙開発の話、もうスペースシャトルは打ち上げられないのかと考えると哀愁も漂うが。

宇宙開発も日本との関係は深いですね。日本の宇宙飛行士も映像に映ってたし。

最後にはアポロ計画で採取された「月の石」が展示されていた。

5kgぐらいあった石を割って一部だけ持ち帰ったんですね。もったいないと思ってしまうけど。


出てくると日が落ちて19時前、ここらへんになると昼間は行列を成していたパビリオンもある程度はフリー入場になっていた。

そんな中で向かったのがサウジアラビア館、ここは手が込んでましたね。

お金持ちですからといえばそうだけど、いろいろな切り口でサウジアラビアを紹介していた。

都市・スポーツといったところは日本でも注目度が高いですね。

最後にはNEOMの紹介があったけど、冬季アジア大会が行われるんですよね。

壮大な話ですよ。まさに未来社会である。


と、ここらで時間になって西ゲートを出て、桜島行きのバスに乗る。

今日は直帰なので、新大阪へのアクセスによい桜島ルートで帰る。

だから荷物はずっと背負ってなきゃいけなかったと。重いわ。

バスはわりと空いていて、スムーズに乗れるように配慮されていることがわかる。

意外と時間がかかって25分ほど。桜島駅付近を時計回りに走るので遠回りになるのもある。

夕食らしいものは食べられなかったこともあり、新幹線の中で食べるものを買ってから、

桜島駅に入るとちょうどエキスポライナーがとまっていた。

それを狙って万博会場を出て、新幹線もとってるんですけどね。

やはりこれが新幹線なら一番便利ですね。

こんな時間の新幹線、疲れて大変だろうと割引でグリーン車とったけど正解でしたね。普通車の定価より若干高かったけど。

そんなわりと弾丸の万博行きだった。次回に向けての気づきもいろいろあったので夏休みにリベンジしたい。

奈良博の同窓会あわせ

今回、連休前に2日間の関西行きをすることになった。

なぜ連休にくっつけないのかというと、連休の前後には東京での用事があるから。

一方でこの時期に関西に行かないといけない理由があって、

それが万博の開幕券を買ってしまったということ。

では、いつ行くか。決め手は奈良博の「超 国宝」展である。


そんなわけで新幹線で京都まで。京都駅で下車したら改札口がひどい混雑。

中央口じゃなくて、八条口なら空いてる? とおもったらこれはこれで混んでる。

理由は大きな荷物を持った外国人客がどんくさいからだった。

東海道新幹線は高速鉄道なのに通勤電車みたいな本数が走ってるので、これはこれで大変である。

普段から自動改札機の使い方を補助する人はいるけど、なかなか間に合ってないみたいですね。

烏丸線に乗り換えるが昼間ということもあり、こちらも外国人客は多い。


昼食を食べて、岡崎公園へ。京都国立近代美術館で「若きポーランド」展に。

第一次世界大戦終結前のポーランドが分割されていた時代の芸術の話ですね。

OKパスポートで見られるから来たようなもんだけど。

面白い発見だなと思ったのが、日本の着物や浮世絵などが伝来したことで、

それに影響を受けた作品がいろいろ展示されていたが、日本の西洋画の黎明期を思わせる作品がしばしば。


いつものように東山二条からバスで東山七条まで。

この区間なら202系統を引ければ空いてていいが、少し空いてたので206系統で。

やはり祇園・清水道などでガサッと乗ってきて混む。

混み合うバスから降りて京都国立博物館「日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―」展である。

これは明確に万博開催記念ということで、最初は博覧会に出展された工芸品からはじまる。

どちらかというと日本の美術史からすると異端な作品が多かったかもしれない。

舶来品に影響を受けた作品や、輸出のための工芸品などは、主流とは異なるところもある。

京都はヨーロッパとの往来もけっこうあったんだなと気づくところはあって、

祇園祭の山鉾には舶来品の絨毯やタペストリーを利用した飾りも使われていて、

大概においてイロモノということにはなるが、京都らしいのかなとは思った。


ただ、これがかなり駆け足になってしまった。

なんとか急いで七条駅に駆け込んで、京阪・近鉄と乗り継いで奈良へ。

奈良に着いてからも小走りで、16:20頃に奈良国立博物館に到着。

この時間はもう閉館間際だけど、入口には「賛助会員特別鑑賞会」という貼り紙が。

そう。昨年末に寄付して賛助会員に列せられたことで、特別鑑賞会なるものに参加できるようになったと。

今回はここに合わせて関西行きをぶつけたということである。


講堂ってのは初めて来るけど、180席のところ7割ぐらい埋まってる。

同伴者含めての参加もあるだろうけど、賛助会員全体で155人と考えると、

半分ぐらいが出席してそう。注目度が高い特別展とはいえなかなかである。

そりゃまぁこういうの参加したくて寄付するんでしょうけど。

やはり年配の人が多いですね。仕方ないね。

最初に館長からの挨拶ではうやうやしく賛助会員への感謝が述べられた。

引き続き担当の研究員から30分ほど今回の展覧会の意図や見所の解説があった。

「超 国宝」という展覧会、確かに出品物の8割が国宝、1割が重要文化財なのだが、

「奈良博の同窓会」という説明はとてもしっくりくる説明だなと思った。

開館130周年の奈良博で同窓会をやると国宝だらけになってしまうのである。


現在でも奈良博で保管されている文化財の多くは寺社からの寄託品だが、

そもそも奈良を中心とする寺社から文化財を預かることこそ奈良博のルーツである。

ただ、寺社に文化財の保管・展示に適した施設ができるにつれて、次第に帰っていったわけである。

過去に奈良博に寄託されていた文化財、あるいは展覧会のために過去に借りていた文化財、

これらが再集結したということが同窓会の意味するところである。

その中でも特に重要なものとなれば、それは多くが国宝、そうでなくても重要文化財であることは多い。

ただ、そんな中に「弥勒菩薩立像」(林小路町自治会蔵)という未指定の仏像がある。

これ、実は奈良博に130年間寄託されている像なんですね。近年修理されたこともあり綺麗ですが。

130年前の奈良博には館蔵品ってのがなかったんですよ。だからこれが一番古いと。

館蔵品では唯一の国宝彫刻「薬師如来坐像」とともに奈良博130年の歴史を物語る展示物なのかなと。


「超」には時代を超えたという意味とともに、国宝・重要文化財の枠組みを超えたという意味もあるそう。

そういえば奈良博には文化財保護の枠組みを超えた文化財が毎秋来てますよね。

正倉院宝物ってのは国宝ではないけど、それを超越するものである。

とはいえ、本物は持って来れないので模造品やスケッチでなんとか。

重要文化財(国宝)未指定の展示物が比較的多かったのが奈良博覧会についての展示で、

奈良博覧会といえば正倉院展の元祖みたいな意味で知られることも多かったが、

奈良博前史という側面もあり、常設の博物館設立の機運を高めたそうだ。

その奈良博覧会の再現展示みたいなこともやっていた。

この奈良博覧会の出品物のうち、法隆寺のものはその後に皇室に献納(実質的には売却)され、

現在は東京国立博物館蔵となっているものもある。そういうのも持って来ている。


この展覧会は仏教美術・神道美術にこれから触れる人に向けた解説もある。

というのも「ざんまいず」のキャラクタによる解説が一部の作品に付いている。

「ざんまいず」って「いのりの世界のどうぶつえん」のキャラクタね。

世界の子供のための博物館

小中学生向けの解説といえばそうだけど、小難しいこと言われてもわからない大人は読んでみるとよい。

奈良博の同窓会という話に通じるけど、奈良博では仏教美術の体系立てた展覧会を何度もやっていて、

そういう展覧会の出品物で、特にハイレベルな作品を改めて集めたものなので、

仏教美術・神道美術の理解という点ではとても助けになる展覧会である。

国宝あるいは重要文化財になる文化財はまさにキーとなる文化財なのである。


そんなこんなでゆっくりと1時間ちょっとかけて鑑賞していた。

展示室では自由観覧ということだが、賛助会員だけなのでゆったりしていることは確か。

他の人もみんなゆっくり見てますからね。こういうのは賛助会員の特権ですよね。

展示替えもあるので、また改めて来たいとは思ったけど、機会はなさそう。


というわけで奈良博の「超 国宝」合わせの関西行きだったが、

ここから明日の万博につながるわけですね。

もっともあまり余裕はなくて明日のうちに家まで帰ってしまう。

連休前に休暇が続くのも考え物ということでこうも慌ただしくなった。

課長兼任の部長

前にこんな話を書いている。

管理職の引き抜き

またしても引き抜き、部長が別の部署に異動になってしまった。

さらに定年退職(といっても再雇用で残るが)が迫った管理職の処遇とかで、

これまでになく部内の管理職の配置がタイトになってしまった。


この結果、課長兼任の部長なんていうのが出てきた。

これまでの課長を部長に登用したが、従来の課長としての役目も残したと。

「課内の体制強化に引き続き取り組みたいとのことで」とはセンター長(部長のさらに上司)は説明してたが、

兼任をする背景に管理職の人数不足があるのは確かだろう。


とはいえ、この人を部長登用した理由はなるほどと思ったところはあり、

ある部署と協調して仕事できそうな上司を必要があったんじゃないかなと。

その観点ではあの人が次期部長候補なのかなと思ったけど。

果たしてそれが正しいかは知らないけど。

いずれにせよ、現時点で部長にしうるのはこの人しかなかった理由はわかる。


一方で代わりの課長が見あたらなかった理由もなんとなくわかる。

次期課長候補らしき枠は今のところ見えない。

以前は非管理職の課長を任命しておいて、後から管理職登用するのもみられた。

現在はこのような方法はとれず、課長になるときに管理職になるのが原則。

このため準備が整うまでは部長に課長兼任させるというのはありそうな話。

ところが課長以下のリーダーを見ても管理職登用の気配は乏しい。

当然、部長兼任で忙しくなるであろう課長から承認権限の移譲などは行われるだろうけど。


とはいえ、いつまでもこのままというわけにもいかないはず。

代わりとなる課長の割り当ては来年などそう遠くないうちに行われるのでは。

でも、課内からの登用ということにはならないのかなという気はしますね。

他のところから管理職を呼び寄せるのか、部内の他の課から管理職登用するか。

いずれにせよ部内の再編は避けられない気がする。

というか今の体制が、管理職の引き抜きや定年が相次ぐ中、

苦肉の策で作られたものというのが実情だからである。


引き抜かれた部長だが、年齢的にはこれが定年前最後の仕事になりそうだなと。

それを見越して特命で割り当てられた職位なんじゃないかな。

ここで引き抜かれなくてもそう遠くないうちに部長を退いてたのだろう。

おそらく次期部長という話はその前からあった話なんじゃないか。

本当ならば課長を他に託して部長になりたかっただろうけど、

そうもいかず課長兼任の部長ということになったんだろうなと。

あくまでも想像ですけどね。

グリーンアローズの道をバイクで走る

東京駅から新豊洲・有明方面に行くのに晴海通りのバス、都05-2系統が便利である。

すさまじい混雑なので、有明まで乗るなら東16系統の方が結局早いのだが。

この都05-2系統は「グリーンアローズ」という愛称があり放送でも流れる。

グリーンアローズは晴海通りのバスに都市新バスシステムを導入した際に命名されたもので、

都03, 都04, 都05の3系統があることから、この命名は 三本の矢の故事から来たという定説がある。

都05は従来からの晴海発着便が都05-1、東京ビッグサイト発着が都05-2と枝番で分かれた。

都04は東京駅~豊海水産埠頭と通勤バスっぽい目的地だが、1日を通じて本数は多い。

問題は都03である。四谷駅~晴海五丁目だが、1時間1本程度と本数は少なく、単独区間の利用は多くないという。


三本の矢の1本は折れかけだとか言われているが、元は都03がメイン系統である。

その歴史は路面電車の時代にさかのぼり、新宿駅~月島(現:勝どき駅付近)を結ぶ電車だった。

これを継承したバスが銀71系統で当時はたいへん利用者が多かったという。

そのため都市新バスシステムの名目でバスサービスの高度化が図られた。

このオマケで2系統くっついてきたというのが実情だという。これが1988年のこと。

当時は大江戸線の建設途上だったが、2000年に環状部が完成した際、

都営バスの路線にも大きく手が入り、都03は新宿駅~四谷駅を短縮した。

(この区間の地下鉄が出来たわけではないが、勝どき駅の開業などの影響も考えたのだろう)

ところがこれにより利用者が激減、本数も減っていって今はこの有様。


ここまでが前置きである。今回、この都03系統のルートをなぞって四谷から晴海通りを走り、

そのまま直進、新豊洲駅・有明周辺にバイクで走ってみたわけである。

このエリアは観劇を中心に用事があるが、特に帰りの往来に困っている。

さっきも書いたように都05-2系統は便利なルートだが、混雑が激しい。

夜はこの系統に限らないがバスの本数が減るので、そもそも不便な上にそもそも乗れないリスクがある。

電車を使えばよいが、利便性が高い豊洲駅や国際展示場駅まで歩くと遠く、そこからも乗換など不便である。

そこで四谷からズドンとバイクで行けばいいじゃないかと考えたわけである。

四谷なのは家との往来が便利で、東京駅のような巨大駅ではないからである。


というわけで最寄り駅でバイクを畳んで電車に乗って四ツ谷駅で下車。

(なぜかJRの駅名には「ツ」が入るが、バス停は四谷駅、周辺の町名も四谷である)

エレベーターはあるが妙に遅い。人数も乗れないので混雑する。

エレベータを上がって改札を出て、麹町口の方を見るとエレベータがないので、

じゃあ反対かと見てみるとタクシーが見える。なんと改札と同じ平面に車寄せがある。

というわけでここでバイクを組み立てて出発である。

駅の目の前は国道20号線「新宿通り」で、自転車専用通行帯もあり上々の滑り出し。

半蔵門交差点で内堀通りにぶつかるが、文字通り皇居のお堀に沿った道路である。

左矢印・右矢印の信号を分けて出すので、どうやって二段階右折するのかと思ったら、

ちゃんと歩行者用信号機に「歩行者・自転車専用」と付いていた。これに従えばいいですね。

この先も左矢印信号を使う交差点にいくつか遭遇したが、だいたいは歩行者用の信号に「歩行者・自転車専用」を付けていた。

このあたりは絶景で、というのもお堀がすごく深いのである。歩行者も多かったが花見かな。


往路は概ね道なりに進めばよいが、しばらくは難しい道が続く。

三宅坂交差点は急カーブ注意とあり、下り坂とカーブの組み合わせなので事故が多いのだろう。

特定原付じゃそんな速度は出ませんけど、注意しながら走っていた。

国会前交差点、往路はどうってことなかったが、帰りが大変だった。

この交差点は銀座方面から来ると一番左が左折可の左折レーンになっている。

四谷に向かうにはここで右折するが、左折レーンから直進して右折する。

左折可なのであまり減速せずに車が突っ込んでくるので、大変難しい。

大阪の梅新東交差点の左折レーン2本よりはマシだけど、ここもけっこうハードである。

JRを越えると銀座の繁華街に突入するが、ここは第一通行帯を走るのが大変。

なぜかというとタクシーが多いからである。タクシーは乗降のために車線変更をしますからね。


築地あたりに来るとこのあたり落ち着いてきて、

少し古めかしい勝鬨橋を渡ると、埋立地にビルが乱立するようになってくる。

晴海大橋はかなり高いところを通るので歩くと大変である。

都05-2系統の本数の少なさと混雑の懸念から、晴海大橋を渡って晴海三丁目まで歩いて、都05-1系統を拾うことがあるが、

そこで大変なのが晴海大橋で、そこさえ乗りきれば楽なんだけどね。

そこをバイクだと20km/hは保って走っているのでそこは楽ですね。

渡りきると新豊洲変電所の円筒形のビルが見える。


今回、バイクでこのあたりに走ってきたのはバイクを停められそうな場所を探すという目的もあった。

まず、新豊洲周辺だが、歩道にバイクや自転車を停めているものの多いこと。

そんな中で駐輪場を備えているのが「チームラボプラネッツ TOKYO」である。

敷地の一角にラックを並べて自転車の駐輪場としている。

うちのバイクは入るけど、一般的なバイクは停められないでしょうね。

新豊洲一帯はバイクは全然ダメだなぁと思って見ていた。


木遣り橋を渡って、有明アリーナ、中にはジムや店舗利用者用の駐輪場はあるらしいが、

とても冷やかしでは近づけないような警備員配置である。

そのまま直進して かえつ学園西交差点で左折して都橋住宅前バス停付近の有明親水海浜公園の入口へ。

入口付近に駐輪場とかあるのかなと思ったが特にないよう。

公園の注意書きにはオートバイ乗り入れ禁止とある一方、園路に自転車に向けた歩行者優先の標示がある。

ということは園路は自転車が自走することは想定しているのか?

ただ、園路に駐輪スペースっぽいのは見えないんだよなぁ。

この辺は一時的に自転車を停めるだけでも難しそうですね。


引き返して有明ガーデン、自転車で来る人も多く、通路を押し歩きして駐輪場へ行くものは多い。

5時間無料と書いてあるが、休日はゲート開放されていて完全に無料みたい。

ただ、注意書きに明確に「バイクについては、バイク駐車場をご利用ください」とある。

このバイク駐車場というのが厄介である。

確かに有明ガーデンにはバイクの駐車場がある。しかし、料金体系が四輪と全く同じなのである。

大型のバイクであれば四輪と同じ料金で駐車できるだけよいかもしれないが、

原付でもこうなんですよね。というわけで困った話である。

とはいえクレジットカード持ちなら4時間無料など、定価に興味がない人なら気にせず使うんだろうが。


さらに先に直進すると、有明テニスの森公園があるが、バイクが停まっている一角が。

自転車の駐輪場に「原付・小型車はこちらをご利用ください」なんてある。

有明テニスの森公園の駐車場はテニスをする人向けのものである。

テニスを観戦する人や、有明コロシアムの観戦・観劇者の利用は想定していない。

四輪は有料だが、バイクは出入口のゲートをすり抜けて利用するようで、無料みたいですね。

自転車は歩道から押し歩きで入る想定だが、どっちから入っても原付は自転車のところに停められるようだ。


有明テニスの森駅の下には自転車の駐輪場はあるが、自転車だけである。

橋の前で左折すると有明アーバンスポーツパークがある。

ここは駐輪場が線で区切っただけで、一部は明確に「バイク駐輪場」とある。

有明アーバンスポーツパークはオリンピック時の施設を移設集約したもので、

例えば、地元の堀米雄斗選手が滑って金メダルを獲得したスケートボード場が利用できるわけである。

「livedoor URBAN SPORTS PARK」と書いてあって、livedoor!? と驚いたが、

間違えなくポータルサイトのlivedoorである。2022年にLINEから譲渡されて別会社になってたらしい。


周辺を散策してみると、運河沿いの有明親水海浜公園が有明アリーナ付近まで通じていることに気づく。

テニスの森駅からアリーナへ向かう人を公園経由で向かうように誘導しているようで、そのような人の流れもみられた。

もしかするとアリーナからの帰り道の運用も変わってるのかも。

有明親水海浜公園としては有明GYM-EX隣接地の広場を整備しているようだった。

何かオブジェがあるなと思ったら、パラリンピックのマークで、

このあたりはオリンピック・パラリンピックのシンボルエリアとして整備されるのだろう。


有明北橋を渡ると豊洲市場、市場隣接地には「千客万来」という施設がある。

千客万来には歩道に隣接した自転車の駐輪場があったが、歩道に放置されてる自転車も多い。

新豊洲駅周辺しかり、このあたりもあまりバイクは想定していないようだ。


この一帯は住宅・オフィスとして利用されている土地が多い。

有明アリーナが冷やかしでは近づけないような物々しい状態なのも、

隣接地がマンションということで、来場者がそちらに向かわないように誘導する必要があるためである。

公共駐輪場はバイクを停められるものはない。新豊洲駅・市場前駅に至っては公共駐輪場自体がない。

基本的には徒歩圏の駅を使う想定で、自転車はともかく、バイクで遠方から来る想定はないのだろう。

そんな中では珍しくも有明ガーデンは規模の大きな商業施設である。

ただ、原付クラスのバイクにとってはあまりに見合ってないんだよなぁ。


このあたりの結果を踏まえて今後のことも考えようと思う。

バイクを運ぶのは大変だが、バイクでズドンと走れるのは気分がよい。

土地柄、帰り道にふらっと車を停めて食事や買い物は難しいのは残念ですけどね。

海の森公園の開園

昨日・今日とさいたまスーパーアリーナにお出かけ。

THE IDOLM@STER 765 MILLIONSTARS HOTCHPOTCH FESTIV@L!! 2

この話はまた改めて。今日はその前に寄り道をしていた。

それはこの週末に開園を迎えた海の森公園である。


なんと東京都は太っ腹で、この開園イベントに合わせて無料の送迎バスが出ている。

海の森公園の開園までは徒歩・自転車・原付での往来手段がなかったし、

今もあるかと言われると微妙なのだが、一応東京ゲートブリッジの歩道部は通り抜けられるようになった。

ただ、終日使えるわけではなく、夜間と月1回の閉鎖日は使えないなどの制限がある。

東京テレポート駅からの路線バスはあるが、今回は徒歩での来園用に無料バスを用意してくれたと。

しかも東京テレポート駅だけでなく新木場駅からも送迎バスが出るということで、

前後の往来に便利な新木場駅からのバスを使うことに。

観光バスでトランクを開けているからなんだろうと思ったら、ベビーカーを積むからだった。

まぁやっぱり子供連れが多いですよね。


前にも書いたが新木場駅は「夢の島」に接していて、そこから渡る若洲もゴミの島、

東京ゲートブリッジは下に船が通るのですさまじい高さである。

これは歩いて渡るの大変だなと思ったが、よく考えたら前後はエレベータだった。

海の森公園のある中央防波堤内側埋立地は埋立完了済みなのだが、

土砂リサイクルの施設があったり、埋立地の名残は多々感じる。

そんなわけで門の前で降ろされて、入口でトートバッグを配っていたが、

それとあわせてオリエンテーリングということでスタンプ集めると何かもらえるらしい。

せっかくなのでこれに沿って園内を回ってみよう。


海の森公園といえばオリンピックの総合馬術でクロスカントリーの会場になっている。

そのことを示す表示は園内のいくつかの箇所に置かれていた。

かつてのコースの多くは帯状の空地として残されている。

一部は園路、一部は広場のようになっている。

園内には池が2つあり、池の中にも障害物が置かれていたが、今はアシが生えて往時の姿はなかなかわからない。

ただ、そり体験として滑っている斜面と池の障害物がつながってたんだろうなとか、想像できる部分はある。

なかなか起伏のある公園で、高台からの見晴らしはよいが、歩くと大変である。


海の森公園にいると飛行機の轟音がよく聞こえる。

羽田空港から東向きに離陸して東京湾上空で高度を上げて北に向かうルートがこの付近を通っている。

市街地を避けて高度を上げられるルートとして海の森上空が活用されている。

まぁ仕方ないですよね。でもこんなところで馬術競技やってたのか。

パッと見た感じでは外国航空会社の飛行機が多く、今の羽田空港は国際線の便数が多いことを実感する。


ステージではイベントも行われ、なかなかの盛況のようだった。

キッチンカーもいたがすさまじい行列だった。

新木場駅で出る前にサンドイッチを買ってベンチに座って食べていたのだが、

何か買えるとは思いつつも事前に用意しておいて正解だったな。

新木場駅のファミリーマートのサンドイッチ、ほぼ枯れてたけど。


多くの来場者が来て踏み荒らされたか、早くも芝生はボロボロ。

明日以降は来園者はぐっと減るでしょうけど。

なかなかアクセスが課題ですよね。自家用車ならいいけど。

海の森は歩道に自転車走行部分があるなど、自転車の走行環境もそこそこ整備されているが、

現在は自転車で往来できるルートは東京ゲートブリッジの歩道部の押し歩きのみである。

さっきも書いたように時間帯の制限はあるんですけどね。

本当は有明方面とつながるといいんだけど、まだそうはなっていない。

(海の森トンネルに歩道部が存在することは確かだが未開通)


いろいろな用途は考えてるのだろうけど、果たしてどう活用されるか。

いずれにせよ長い期間を経てやっと開園を迎えたのは大きな話なのでは。

マイナポータルでのパスポート更新

そういえばマイナポータルでのパスポート申請の話を紹介してなかったな。

というわけで書いておこうと思う。


まず写真が必要ですね。職場の人にスマートフォンのカメラで撮影してもらった。

GIMPでサイズ調整をして、サイズ規定に合う顔写真ができた。

これはマイナンバーカードのときにもやったような覚えがある。

もう1つ、これも面倒なのだが署名の画像データが必要である。

適当な紙に書いて撮影すればよいとなっているが、それでは難しいのでは。

更新なのをよいことに、現在のパスポートの署名と同じぐらいのサイズになるように書いて、

それで書いた紙をスキャナで読み取って切り出して作成した。

本物の申請用紙があればそれに合わせて書けばいいんだけどね。

市役所でもらえばいいけど、更新なら市役所に行くことないし。


ともあれ、これで必要事項をマイナポータルで入力していく。

そもそもマイナポータルのどこにパスポートってあるんだよと思ったが、

「さがす」でパスポートと入れるのが一番早い。

PCでPasoriを使ってマイナポータルを使っている場合でもスマートフォンアプリが必要である。

マイナンバーカードの券面事項確認APとか、パスポートの読み取りはスマートフォンアプリでしかできないようで、

そのたびにQRコードが表示されるのをマイナポータルアプリで読む必要がある。

でも、それはそれでスムーズだと思う。

ちょっと苦労したのがパスポートのICチップの読み取りで、ICチップのページを直接当てるとうまくいかず、

畳んだ状態で当てるとうまくいくという、これはよくわからない話だが。


ともあれ、そんな必要事項の入力をあれこれ済ませれば申請は完了。

数日後にマイナポータルで完成日と受付票のPDFが入手できる。

この受付票を印刷して持参するとスムーズである。(画面表示でもいいらしいが)

手間はそこそこだし、写真・署名の用意がけっこう手間ではあるが、

やはり申請書を持っていかなくていいのは楽ではある。

というのを実感するのは受け取り時なのだけど。


10年前にパスポートを取得したときは市役所が申請場所であり受領場所だった。

これは市が県からパスポート窓口の権限移譲を受けているためであった。

東京都でも島しょ部は町村がパスポート窓口になっているが、

それ以外の地域では少なくとも受領は東京都のパスポートセンターに行く必要がある。

東京都は新宿・有楽町・池袋・立川とあるが特に管轄は決まっていない。

他の用事も考えれば新宿がよかろうということで新宿にした。


もう1つ異なるのが手数料の納付方法である。

10年前は収入印紙と県収入証紙を受領書に貼って持参した。

市役所でパスポート申請

ところがマイナポータルでの申請だと受領書は当日に窓口で渡されることになる。

なのであらかじめ貼って持参できないのと、もう1つ問題は東京都は収入証紙を廃止していることである。

東京都の手数料については当日に窓口で納める以外の手段がないのである。

一方でマイナポータルでの申請の場合、電子納付という選択肢もある。

便利なのだが、今回は不都合があって、なんとパスポート申請費用は勤務先が持ってくれるのである。

印紙と東京都手数料の領収書が必要なので、電子納付はできない。

印紙を郵便局で買うとゆうちょPayで払えるのでは? と考えたが印紙は対象外である。


そんなこんなで事前に現金を下ろして都庁へ向かったのだった。

都庁にたどり着いてから、本当に向かうべきは都議会議事堂だったことに気づき、

だいぶ遠回りして到着すると窓口の混雑がひどいなぁと。

でも「申請受付」って書いてあるから、受領は別のはず。

どこだとキョロキョロすると、あまり人が多くない一室に「受け取り」と書いてあった。

ここで印刷してきた受付票とパスポートを出すと、QRコードを読んで受領書を渡してきた。

これを持って隣の窓口で手数料払ったら戻ってこいという。

隣の窓口で16000円払うと、14000円の収入印紙と東京都手数料納付済のマークをして返ってきた。

領収書も14000円の印紙の販売証明書は普通紙に印字されたもの(日付まで刷り込まれていた)で、

一方の東京都手数料は感熱紙のレシート、なんでなんだろうね。

同じ窓口に戻ると受付番号が渡されて、少し待つとすぐ出てきた。


新しいパスポートは冨嶽三十六景デザインのもの。

日本らしいといえばそうかもしれないけど。

今月24日申請分から新しいデザインになるが、冨嶽三十六景がモチーフなのは変わらないようだ。

あと最終ページの所持人記載欄は緊急連絡先のみになっている。

だからか帰ったら早々書いてねというようなことは言われなかった。

従来のパスポートは返却されるが、VOIDという穴を開けられるかと思ったら、

スタンプを数個押して、ICチップに穴を開けて返却されるだけだった。

外から見ると判別が付きにくいので、表紙にテープを貼って別の場所に保管して置いたが。

このあたりは窓口次第なんでしょうかね。それにしてもVOIDシールぐらい貼ってくれてもいいじゃないかと思いますが。


顔写真ページがICチップ内蔵のプラスチック製になると、

こんな冊子の中央にICチップのページを綴じ込んで不格好なと言われるのかもしれないけど。

でもこれが初代バイオメトリクスパスポートなんだって話ですよ。

顔認証ゲートが当たり前になったのは、これがあったからこそ。

まぁスタンプ無しで問題ないのかというのは別の問題としてありますけど。