平泉に描いた浄土世界はこんなのかな?

無事に帰宅して、6日ぶりの自宅である。

新幹線で大宮で降りて、相変わらず人が多いなと思った。

そんなに遅くなかったので家に帰ったら晩ご飯作るかと思い、買い物してから帰ってきたのだった。


さて、今日は平泉に行っていた。

朝9時半ごろ、平泉駅で降りて、毛越寺に向かって歩いて行く。

それにしても静かだ。平日の朝だとこんなに静かなんかな。

毛越寺はかつて浄土庭園の中に壮大な伽藍を作ってあったらしい。

ところが建物は焼失してしまい、残っているのは庭園と礎石だけ。

そんな庭園を往時の姿を思い浮かべながら歩いていた。

庭園と礎石しか残っていないと書いたが、かつてどんな姿だったかというのは想像しやすかった。

それもこれも庭園の修復が行われた結果で、そのことは宝物館の展示でも紹介されていた。


と、平泉の建物の多くは燃えてなくなってしまったのが実情のようだ。

平泉に浄土世界を描いた奥州藤原氏が絶えてからも、平泉の文化財を守ろうという努力はあったそうだ。

それでも戦乱の時代にほとんど燃やされてしまい、当時の建物で残ってるのは中尊寺金色堂ぐらいなのだろう。

というわけで毛越寺から中尊寺に向かって歩いて行く。


静かだと思っていた平泉だが、中尊寺に近づくと人が急に増え出した。

月見坂という急坂をゆっくり上がっていく。石段にしてもよさそうな勾配だが、ただの坂である。

あれこれ見ながら進んでいくと、讃衡蔵と金色堂への入口が見えてきた。

金色堂の拝観券を買うと、宝物庫である讃衡蔵も見られるとのこと。

中尊寺の文化財で特に重要なのは金色堂ともう1つ、中尊寺経である。

紺色の紙に金字・銀字で写経してあるという代物で、これの複製品が置いてあった。

金色堂といい中尊寺経といい、他にもあれこれ金ピカなものがたくさんある中尊寺だが、金の消費量も相当なものだったようだ。

それだけ金が算出される土地ではあったそうだが、とてつもない話である。


そして金色堂に行くわけだが、外から見ると鉄筋コンクリート製の建物に金色堂と矢印が向いている。

これは覆堂ということで金色堂を風雪から守るための建物である。

建物を収める建物なんて工事のときの仮囲いでもなければ見ないけど、

なにぶん金ピカのお堂、雨風に晒されては劣化がひどくて困るということで、後の時代に覆堂という建物で覆うことにしたのだという。

今の鉄筋コンクリートの覆堂は昭和の修理で建てたもので、中ではさらに金色堂をガラスで覆っている。

今の金色堂はあたかもお堂のミニチュアの工芸品のような扱いを受けているが、実際、使っている材料も建築というよりは工芸という代物だそう。

実際見て思ったけど、これは建築物とは思えないものだなと思った。

分類上はれっきとした建造物なのだが、その割には現実味のないデザインである。


というわけで、平泉をあれこれ見て、一関から新幹線で帰ってきた。

一ノ関駅は去年の夏にも大船渡線からの乗換で来ているので見覚えのある景色だった。(廃墟と復元をみる旅)

あのときは太平洋側がメイン、今回は日本海側がメインということで、違う軸で東北を巡ったことになる。

実は内陸部というのはあまり注目してこなかったところだったりする。そこら辺も何か機会があれば。