朝日新聞デジタルを読んでるとこういうネタがけっこう多いのですが。
自分より弱いものをたたく「弱者男性」 その苦しみを社会が救うには (朝日新聞デジタル)
有料記事なので読めない人も多いでしょうが。
女性の権利が高まる一方、弱い立場に追い込まれる男性がいるということである。
ただ、陰謀論めいたところもあり、冷静に分析してみると、弱い立場に追い込まれている「弱者女性」もおり、これもまた問題であると。
確かにそれはその通りだなと思いましたね。
ただ、後で書くけど、想像とのギャップの大きさと這い上がることの難しさが「弱者男性」の課題なのだろう。
どこのニュースでも「生きづらさ」という言葉はみるんだけど。
「生きづらさ」としか語れないしんどさ 背景にある自己責任社会 (朝日新聞デジタル)
これもまた有料記事なので読めないかも知れないが、タイトルが半分ぐらい。
かつては女性や障害者というのはそれで地位が固定されていたし、そこに対する社会の理解も乏しかった。
現在はこのあたりの理解も進み、多様なライフスタイルが認められるに至った。
ただ、そうすると様々な立場の人を横並びにして見ることになるので、選考などで努力して報われれる人もいれば、努力しても埋められない人もいる。
だからマイノリティーであることを「言いわけ」にできず、「苦しいのは自分のせいだ」となってしまう。「女性の採用はありません」と門前払いされたら「不当だ」といえるけど、「公平に審査した結果、落ちました」と言われたら、ひとりで抱えるしかありません。
こういうことを「生きづらさ」と呼んでいるのだが、あいまいな言い方である。
じゃあ身分社会は「生きやすい」社会なのかというと、そこも難しいが。
でも、努力が報われない理由を外に求めることはできるのは楽だと思うし、
身分が固定されることを前提とした制度設計はあるかもしれない。
サラリーマンの配偶者の国民年金保険料の負担がないことはその一例かもしれない。
これも公平性という点ではどうなんだという話はあるのだけど、
一方でこれによって働けない人を救っている側面もあるという指摘はあった。
問題はその恩恵にあずかっているのはほとんどが女性ということだが。
冒頭に書いた「弱者男性」の厳しさというのは想像とのギャップではないか。
弱者男性を自認しやすい人として、収入が少ない、コミュニケーションが苦手とか、発達障害・精神障害など抱えているなどある。
現在の社会で職を得るというのは大変な努力が求められる。
女性・障害者・高齢者の雇用が拡大し、サプライチェーンの変化もあり、
かつては若い男性というだけでそれなりの職にありつけていたのが難しくなった。
付加価値の高い仕事というのは、高いコミュニケーション能力が求められる。
そういう仕事が多くを占めるようになった結果、取り残される人が出ていると。
かつてはそういう人でも定職を得て、十分な収入で一家の大黒柱として君臨できた。
ところが子供の頃に見てきた大人はそうだったのに、いざ自分が大人になると全く異なる。
その背景の1つである女性の地位向上を敵視するに至っていると。それより大きな要因を無視してると思うが。
もう1つはそういう立場から這い上がることの難しさですね。
収入と未婚率の相関について、男性は定収入の未婚率が明らかに高い。
このため配偶者に養ってもらうという道はほとんど閉ざされている。
ただ、女性なら当然そういう道があるとも言えないのは注意が必要だが。
また先の記事に「女性は売春や『パパ活』で簡単に稼いで優雅な生活ができるという意見もよく見ます」という記載があるが、
男性が同様のことをできないわけではないが、その難易度はかなり高い。
ただ、女性でも楽ではないとは思いますよ。それなりに求められるものは大きい。
あと、この双方に通じる指摘なのだが「経済的に従属し不本意なことをせざるを得なくなっている」とある。
配偶者に養ってもらうのも、制度面では国民年金保険料の保険料負担がないのも結婚しているのが前提で離婚すると失われてしまう。
売春や「パパ活」こそ客が付くかどうかですから、客に見捨てられないために不本意な立場に追い込まれる人はいるだろうと。
だから弱い立場から這い上がれる道があってもそれが万事解決ではないと。
付加価値の高い仕事しか残されない要因の1つとして障害者雇用の拡大があるんじゃないかなと思っているところはある。
障害者の法定雇用率を達成するために、子会社を設けていることは多い。
そこで例えば知的障害者の特徴に応じた仕事のマネージメントをしていると。
これによりチャンスを得た障害者が多いことは間違いない。
ただ、その障害の特徴を考慮した仕事を集めていった結果、従来は障害の有無を問わずにチャンスのあった職種が減っていった面もある。
それで割を食うものの1つが障害者として認定はされないが、それに近い人、例えば境界知能とか言われる人ですね。
健常者で横並びにされるとどうしても不利な立場になりがちである。
本当はその能力を生かせる仕事があっても、障害者枠にはありつけない。
こういう側面もけっこうあるんじゃないかなと思う。
ただ、障害者だって必ずしも能力を生かせる仕事にありつけるわけでもない。
障害者が能力を行かせる仕事をと思って、一般に公募されている仕事に応募しても合理的な配慮がないため働けず、低賃金にあえぐことになったり、
障害の種類によってはそもそも就職口に乏しいものもあるという。
結局のところ、各社の法定雇用率の達成のために合理的な方法を選ぶと、
マネージメントしやすい障害者を集中させて使うという形になりやすい。
同じ障害の人ならどこの職場で雇ってもよいのだが、そのためのマネージメント体制がある職場は限られているから、特定の職場に集中させていると。
そんなわけで現代社会というのは大変難しいのである。
身分によらず等しくチャンスがあるということは、努力して報われる面もあるが、努力では埋められないものというのもある。
この努力では埋められない部分を埋めるための制度もあるが、
そこから外れた人はいろいろ割を食うことになるが、一方で制度で救えないものもある。
こういう歪なところに着目していくとキリがない。
このような問題の打開策として「競争社会をやめるなど人類史的な大きなことをやらないと」なんて書いてあるけど、そこに現実味はない。
女性・障害者・高齢者の雇用が拡大して、競争の苛烈化により失われたものもあるが、社会全体として得たものの方が多いことは明らかである。
よりによってこうして弱い立場に追い込まれる男性というのは、
不平は言うけど、組織化して社会に訴えることもしないし、社会にも共感されない。
(弱い立場に追い込まれる背景の1つがコミュニケーション力の弱さや認知能力の欠如なのもあると思う)
そのくせテロリズムに走るとなれば困るが、それも少数派と言える。
自殺などで静かに社会から退場してくれる人の方がはるかに多い。
冒頭にも書いたが「弱者男性」もいれば「弱者女性」もいるということで、
どのような身分でもどうしても割を食う人というのは出てくる。
今はまだ女性というだけで共感してもらえる要素はあるかもしれないが、
これも段々と薄れてきていて、それを「生きづらさ」という人もいる。
そういう人たちへの共感が「生きづらさ」の緩和につながるという話もある。
アプローチとしてはそれしかないけど、果たしてそういうことができるのか。
そういう立場に追い込まれるのは明日の自分かも知れないと想像するぐらいですか。