朝のニュースでこういう話があって、そうか6年も経ったのかと。
相模原障害者施設19人殺害事件から6年 再建された施設で追悼式 (NHK)
事件後、施設の在り方について議論もあったが、結局は重度の障害者のすみかというのは同様の施設によらざるをえないという結論になった。
規模を縮小して現地再建ということになり、昨年8月に開所している。
当時、このBlogではこういう記事を書いている。
ご存じの方も多いだろうし、この記事にも書かれているけど、容疑者はもともとこの施設で働いていた。
すなわち、障害者福祉の最前線にいた人で、きっと多くの障害者を見てきたはずだ。
そういう人がこういうことを決断したということは非常に重いメッセージだ。
ただ、その手紙をよく見てみると「意思疎通がとれない人間を」とか「重度・重複障害者を」とかかなり限定が入っていることに気づく。
共生社会のためにやるべきことはまだたくさんあると思うわけだけど、
しかしこの事件を起こした人というのは、障害者福祉の最前線で働いていた人で、
その人が重度障害者について、社会で受け入れがたいと語り事件を正当化することは、どうにも考えさせられることである。
現実にそういう限界があるのではと裏付ける1つがこのことである。
犠牲者のうち、遺族の意向を受けて7人の名前が刻まれた「鎮魂のモニュメント」
亡くなったのは19人、でも慰霊碑に刻まれたのは7人の名前だけである。
確か事件直後に名前が明かされてたのは1人とかそんなんじゃなかったっけ?
障害者施設の入所者ということで警察から公表するのが差し控えられたのはともかく、
最終的に慰霊碑に名前を刻まれることすら拒んだ家族がこれだけいたのかと。
それが1人とか2人でなく、19人中12人ですからね。
というわけで大変難しい問題を突きつけた事件である。
当時もそういうことは思ってたけど、6年経って改めて難題だと思った。
6年経過したが重度障害者を取り巻く環境はこれといって変わったわけでもない。
配慮があれば働ける程度の障害者にとっての居場所は増えてきていると思う。
でもそういう受入の限界を超えた障害者を取り巻く環境はこの通りである。
むしろ入所施設に入る障害者が減り、非常に限られた施設に集約される傾向である。
当施設が規模を縮小したとはいえ現地再建を選んだことは、それを如実に表すものである。
代替できる入所施設も乏しく、だからといって施設を出ることもできないと。
事件後、容疑者は裁判にかけられ、2020年に死刑が確定している。
まだ執行には至っていないが、死刑となると神格化されやしないか。
それは先の記事で容疑者からの手紙をNHKが公表したことについて「公共放送がテロを扇動するのか」という感想を書いたとおりである。
重度障害者を排除したことを肯定的に見る人は実はけっこういるのではないかと。
そういうことをおぼろげに思っていたところで、先日、奈良市で安部元首相が襲撃される事件があった。
この事件には被害者・加害者ともに神格化の懸念があり、
特に被害者である安部さんについてはその懸念は現実のものになっている。
まず被害者である安部さんは、長きにわたり総理大臣を務めたことは大きいが、
やはりそれだけに自民党内、あるいは支持者の中では特別な思いがあったようである。
それだけに死後まもなく国葬を求める声が挙がったわけである。
内閣法制局から報告「それなら国葬で」 岸田首相、急な決定の舞台裏 (朝日新聞デジタル)
総理大臣経験者でさえ異例の国葬の実施が決断されたわけだが、
これ自体は外国要人の弔問が多く見込まれるという実務的な理由が大きいと思う。
そもそも従来よく行われていた内閣・自民党合同葬もある種の国葬ではある。
内閣府自身が行うことは異例だが、実務的にはそれだけの理由があると考えている。
(こういう理由は国会などで明確に語られたものではないが)
ただ、自民党内ではこういうことが言われてるそうである。
国葬発表後、安倍氏に近い自民党議員は「首相らに『保守派はみんな国葬にするべきだと言っている』と働きかけた。首相はよく判断した」と語った。首相は、党内外の保守派からの評価も手に入れた。
安部さんを支持してきた党内外の人たちの主張に沿って特別扱いしたのではないか。
もしそのように認識されれば、そういう人たちが安部さんを神格化していくのではないか。これが僕の懸念である。
加害者にも神格化の懸念があると書いた。
安倍氏を銃撃した山上容疑者の“減刑”求める署名が始動も「まだ起訴前」「お気持ちで司法歪める」と物議 (Yahoo!ニュース)
この背景には加害者の親が宗教にのめり込むばかりに経済的に破綻し、
このことへの報復として、その宗教とつながりがあると見た安部さんを襲撃したと。
宗教の指導者を襲撃するのは難しかったということもあるのだが、創始者の没後に分裂を起こしていることも外部の関係者の襲撃に至った理由でもあるらしい。
このような背景に理解する人は少なくないということである。
まだ起訴もされていない段階でどのような刑が科せられるかはわからないが、
やはり殺人罪の法定刑の1つである死刑ということも十分考え得るところである。
言うても被害者1人だからそこまで行かないんじゃないかという見方も多いが。
もしも死刑になり、それが執行されたとすれば、生活を破綻させた宗教に刃向かった英雄として神格化されるのではないか。
まだなんとも言えませんがね。
死刑というのはあまりいいことはない刑罰だと思いますがね。
更生困難と死刑を主張する声はいろいろ聞くけど、更生困難でも法定刑に死刑がない犯罪(例えば窃盗)とかだと選べませんからね。
死刑になりたくて凶悪犯罪を起こすような人すらいるような状況では、
死刑が犯罪抑止に貢献しているというのは完全な幻想ではないかと思う。
とはいえ、法定刑に死刑がある以上、選ばざるを得ないことはあると思う。
でもそれが本当によい選択なのか? 懸念はここに書いた通りである。