最近、ヨーロッパではコーランを焼却する行為が相次いでいるようだ。
イラク大使館前でコーラン焼却 関係悪化懸念も―デンマーク (JIJI.COM)
コーラン(クルアーン)はイスラム教の聖典である。
その下敷きには聖書があり、この聖書はユダヤ教とキリスト教とも同じはずだが、
歴史を経る中で宗派ごとに聖書の記載や考え方に差異があるようだ。
このような事情もあり、イスラム教では聖書は啓典だが、コーランの記載が優先されるという位置づけになっているよう。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が同根だって言っても容易に相容れないのは知っての通りですが。
ところでイスラム教では偶像崇拝が禁止されているという話がある。
ここの考え方はユダヤ教とキリスト教も同じとされている。
ただ、実態としてキリスト教はいろいろな像や絵を拝んでいるように見える。
布教上、見えるものがあったほうがよいという考えがあったようで、
像を置いたとしても、信仰対象は像そのものではなく、その背後にある神だから問題はないという理屈で許容したらしい。
そんなわけでキリスト教には信仰上のシンボルとなる像や絵がいろいろある。
実態としては信仰対象として扱われているのではないか。
それに比べればイスラム教の偶像崇拝禁止は徹底されているように見える。
それならコーランを焼くのは何も問題はないのでは? という話を見た。
すなわち、コーランそのものは信仰対象ではないのだから、
コーランを燃やしたことに抗議することは偶像崇拝を認めたことになるので、
そのことがコーランに反する行為じゃないかということである。
そもそもこの偶像崇拝の禁止というのは唯一神を信仰することから来ているという。
このために唯一神ではないものを崇拝することを禁止していると。
神像があったとしても、それは唯一神ではないので、崇拝してはいけないと。
これが偶像崇拝を禁止する根拠だという。
キリスト教がこのあたり緩いのは 父なる神 と 神の子(イエス) と 精霊 が一体となって唯一神として扱われている事情もあるかも。
唯一神といっても、3つの姿があることを前提としているわけだから、
ユダヤ教やイスラム教ほど神の唯一性には厳しくならないのかもしれない。
その観点ってコーランってどういう扱いなの? と。
イスラム教の唯一神をはアッラーって言いますね。
まず アッラー そのものの像や絵を作ることはコーランで禁止されている。
なのでこれは全く存在しないし、作ったら破壊されてしまう。
存在しない以上は崇拝対象になることはあり得ない。
預言者であるムハンマドを描くことは必ずしも禁止されていないので存在している。
ただ、それが崇拝対象になってはいけないので、あまり作らない。
一方で文字はいいんじゃないかという考えはあったようである。
神の啓示であるコーランの文字や、アッラーという文字自体を描いて、これを信仰上のシンボルにすると。
こういうことはかなり行われているようである。
キリスト教では像や絵があっても、背後にいる神を拝んでいるからよいと書いたが、
イスラム教では像や絵はダメと言われたが、文字なら問題ないという理屈で同じようなことをしてるんですね。
名目上はともかく、実態としては信仰対象になっているということである。
日本では多神教の考え方がとても根付いている。
同じ仏や神がいろいろな姿で信仰されることをなんとも思わないので、
仏像や神像はいくらでもあるし、それ自体も仏や神として扱われる。
大切にするべきものがいろいろあることは、それはそれでよいことだと思う。
他の宗派にもこの考えを適用してしまう人は多いだろうから、
日本だとコーランを焼却するなんてもってのほかと考えるのが一般的と思う。
ただ、それはイスラム教の考えとはまた違うのかなと。
イスラム教にとってみれば、アッラーの唯一性から像や絵を作れない中で、
信仰上のシンボルというのがコーランとか限られたものになってしまう。
それを燃やされることの意味は重いということだよね。
実態としてコーランへの偶像崇拝はあるという結論ですよね。
一方でなぜヨーロッパでコーランが燃やされるのかというと、イスラム教徒への反発だよね。
コーランを崇拝するのではなく、アッラーを崇拝しろという理屈ならともかく、
イスラム教徒が憎いのでアッラーの啓示が示されたコーランを燃やしてると。
これでは、コーランを焼却することは正当化できないよねと。
当たり前ではあるんですけどね。