原爆と船と温泉

もうかれこれ12年前の話だけど、中学校の修学旅行で長崎に行った。
市内の中学校では修学旅行の目的地は広島か長崎にしろという話があったと聞いている。
うちの中学校では長崎に行く方がなにかとためになるだろうと、長崎を選んだんだという話を聞いたような。
ともあれ、広島というのはもしかしたら13歳(中学2年生の秋に行っていた)で来ていた都市だったかもしれないという話。


市内電車で広島の中心市街地にやってきて、その大都市っぷりには驚いたもの。
中国地方では最大の都市ですからね。確かに岡山と比べても明らかに大都市だ。
そんな広島だが、ゆえあってぽっかりと空いた空間がある。平和記念公園である。
ビルの乱立するところから、橋をわたるときれいに整備された都市公園が見える。
これが平和記念公園だ。


もともとこの地域も市街地だったのだ。そのことは公園内の町名表示板でも紹介されている。
ところが原子爆弾によりほとんどの建造物がなくなってしまったのだ。
投下前後の写真を比べると、なんでこんなことになるのか?と不思議に思うほどだ。
そんな地域につくられた公園ですから、このことにちなんだモニュメントがあれこれとある。
そこで驚いたんだけど、慰霊碑のまわりを掃除して、新しい花を供えている人がいた。
慰霊碑があっても、そこに常にきれいに保ち、花を供えるというのは、そうそう行われないものだ。
それだけこの慰霊碑に込められたことは大きいことがわかる。


公園を歩いていくと、旧広島県産業奨励館、「原爆ドーム」がある。
壊れた建物に見えるが、実情としては残ってしまった建物というのが正しいように思える。
というのも、このあたり一帯の建物はほとんどが跡形もなくなくなってしまったのだが、
産業奨励館は鉄筋コンクリート造だったこともあって、それなりに残ってしまった。
まぁ残ってしまったといっても、その機能を果たせるものではないのは言うまでもないが。
壊れた状態を残し続けるのは大変難しいことだ。けど、爆心地近くでは数少ない生き証人だったのだ。


平和記念資料館には、あれこれと原子爆弾の被害を表すものが展示されている。
こうやって見てみるとわかるんだけど、ボロボロになりながらも意外といろんなものが残ってるんですね。
人への影響という点では熱による影響が大きかったのだが、
服も全部燃えるわけではなく、黒い部分だけ燃えるとか、そういう部分的な影響に留まる例も多かったようだ。
かといって、そこで適切な治療が受けられるはずもなく(医療材料の不足はかなり長く続いた)、
苦しみながら死んでいった人はかなり多いわけである。
あと未知の事象として放射線による障害があって、これは大変苦心したようだ。
というか今でも広島・長崎の事例ぐらいしかデータがないんじゃないかなぁ。


そんなこんなで約70年前の惨事に思いを巡らせ、
広島から呉に行くために、まずは地下鉄に。
地下鉄といったけどアストラムラインっていう新交通ですね。都心部分は地下鉄になってる。’
これで最近できたらしいJRとの乗換駅、新白島駅でJRにのり、呉に向かった。
呉に来たのは松山行きのフェリーに乗るためだが、船が出るまで海上自衛隊の史料館を見学してきた。
「てつのくじら館」という愛称がつけられているが、これは潜水艦のことだ。


展示は大きく2つ、機雷掃海と潜水艦のことである。
機雷掃海はこの展示を見るまであまり知らなかったんだけど、実は海上自衛隊の原点となる業務だった。
終戦後、海軍省は第二復員省となり、兵隊を戻していく役割に切り替わった。
一方で、海には大量の機雷があり、安全な航行がままならない状況だったので、これを除去する必要があった。
この機雷を取り除く作業が機雷掃海である。
アメリカ軍が本来の責任者ではあったそうなのだが、旧日本海軍を継承した第二復員省も関わることなった。
後に、この業務は海上保安庁に引き継がれたのだが、後に保安庁、海上自衛隊に移管されている。
その後、海上自衛隊の尽力により、機雷はほとんど取り除かれたが、今も年1個、2個ぐらいは取り除かれてるんだとか。
一方で、国際貢献ということで、外国で終戦後の機雷掃海の役割を担うこともある。
機雷掃海なんてやらなくていいに越したことはないけど、一方で平和な海を取り戻すというポジティブな役割でもある。


もう1つのテーマが潜水艦だが、実際のところ展示を見ても謎は多い。
そもそも潜水艦ってなにをしてるんだよって話はある。当然のことながら秘密だとかかれているのだが。
ただ、確かなことは平時でも何らかの意図をもって潜っているということである。
その潜水艦の中の暮らし、航行、安全対策が展示されている。
そして引退した潜水艦の現物に入ることができるのだ。これには驚いた。
本物の潜望鏡をのぞかせてもらったけど、潜望鏡を使ってもこの程度の情報しか得られないんだよね。
完全に海の中ではどうやって操縦するのか?かなり難しいのは確かなのだが。


フェリーの時間になって乗り場に行く。
このフェリーは広島~呉~松山ということで、呉は経由地である。
14時40分発のフェリーが着岸したのが14時40分、ってちょっと遅れてるような。
そこから人の乗り降り、自動車の乗り降りもあったのかな?わずか4分後には出発した。
フェリーってこんなに短時間で発着できるんだね。
そこから2時間の船旅で松山に到着した。
ずっと陸が見え続けているからちょっと不思議な気がした。


松山に到着したわけだが、あまり実感はない。
ともかく市内に行くために高浜駅まで少し歩く。
駅直結ではないがかなり近い。シャトルバス(有料)もあるが、ほとんど同着だった。
ここからの電車は15分間隔だからけっこう便利な気がする。
けどなんか見覚えがある内装だな、と思ったら京王のお下がりだったようだ。
松山市駅に着いてもあまり愛媛に来た実感はなかったのだが、
そこから路面電車にのり中心市街地に来たら、やっと松山という気がしてきた。


松山といえば、道後温泉である。
道後温泉本館という重要文化財の公衆浴場がある。これが道後温泉のルーツである。
温泉リゾートといえば、旅館で宿泊し風呂に入りとなるところだが、
日本最古の温泉である、道後温泉は風呂部分は当初、公衆浴場となっていた。
立派な建物、立派な浴場なんだけど、今にしてみるとこれが温泉街のコア施設というのはちょっと不思議。
ただ、ここで温泉に入り、そして風呂上がりに茶と菓子を出してもらってくつろぐと、
そんなことを楽しんでいた人の1人が夏目漱石で、「坊っちゃん」の小説で出てくる温泉がまさにそのこと。
風呂だけにしたのだが、「坊っちゃんの間」を見物できるからと、休憩所を抜けて行ったら、
個室で浴衣を着て、お茶とお菓子を出してもらってくつろいでる人がいて、そういうことかと理解できたのだった。
まぁ風情はあるのだが、今時の温泉リゾートとは結構違うというところも含めて見所だ。


ところで、坊っちゃんの小説で「マッチ箱のような汽車」なんて話があったような気もするが、
実はあれって伊予鉄道のことで、三津~松山(現:松山市駅)間の軽便鉄道のことを指している。
今回、高浜~松山市で電車に乗ったけど、高浜駅は三津駅から先に延長してできた駅で、すなわちあの小説のように松山入りしたわけである。
あんまり考えてなかったんだけど、実はそういう物語にも描かれたルートだったって話らしい。