宿のすぐ近くに「倉敷美観地区」と書かれた一帯がある。
なんでこんな名前なのだろうと気になるが、倉敷川沿いの歴史的な町並みをこう呼んでいる。
調べたら美観地区というのは都市計画上の名前で、伝建地区の制度ができる少し前から市の条例で景観の保存をしていたそう。
後に「倉敷市倉敷川畔」で重要伝統的建造物群保存地区となっている。
ここに大原美術館というのがある。
他の美術館が企画展でここから作品を借りてきて展示しているので知っていて、
それが倉敷にあるということを意識したのはいつだったか。
この大原美術館、驚いたのは1930年にできているということ。西洋画を展示する美術館としては日本最古である。
しかもここに並んでいるコレクションは美術館の展示のために購入されたものである。
もともと収集されていた個人のコレクションを並べたところがスタートじゃないんですね。
購入によりコレクションを形成する美術館が1930年の倉敷にすでに存在していたことが驚きである。
大原とは創設者の名前だが、館内では倉敷紡績の創業家として紹介されていた。倉敷紡績は後にクラボウと名前を改めている。
同社の兄弟会社のような形で設立されたクラレの方が有名で規模が大きいですけどね。
大原美術館のスポンサーの最初にクラレとクラボウが書かれているのは必然ですね。
そんな大原美術館のコレクションだが、有名なのは開館前にヨーロッパで買い付けた西洋画なんかな。
大原孫三郎が援助していた画家、児島虎次郎を研鑽のためにヨーロッパに送った際に買ってきてもらったもので、
クロード・モネから「睡蓮」を直々に買ったら、近年にスイレンが送られてきたので池で育てているなんて話もあった。
ただ、それだけじゃないんですね。それ以降、現在に至るまで日本の西洋画を収集している。
大原美術館の開館時の案内状にも書かれているが、児島虎次郎の作品も大きな目玉だったんですね。
実は児島虎次郎は開館直前に亡くなってしまったのだが、彼のために作った立派なアトリエがあって、
長年使われてなかったのだが、2005年から作家を呼んで滞在して作品制作してもらうARKOという事業がはじまった。
美術館のルーツにも迫る事業と言える。それに関わる作品もどんどん増えているわけですね。
観覧券は本館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館の3館で見せる。館ごとに違う日でもいいらしい。
この工芸・東洋館というのはおおよそ美術館とは思えない空調である。暑すぎる。
展示物が耐久性の高い陶器や石が多いのはあるんだろうけど。米蔵の転用で作ったらしい。
ちょっと不思議な気がしたのだが、実はこれも美術館のルーツにつながるものである。
児島虎次郎記念館、もと中国銀行の建物を改装したもので、今年オープン、児島虎次郎の作品を展示することを目的としているが、
一番最初の展示室にはエジプトあたりの陶器などがあれこれ展示されている。
実は児島をヨーロッパに送ったとき、西洋画だけでなくこんなのも収集していたと。
日本の陶芸家の作品を収集したのもこのあたりに背景がありそうである。
さて、次の目的地に向かうためにバイクを走らせて茶屋町駅に。
昨日、下津井からの帰りも茶屋町駅で降りてバイクで走っているので同じ道を行くことになる。
ところでこの道に限らないのだが、岡山県のこのあたりの道は転落しそうで怖いところがたくさんある。
道路との間に柵も何もなく、増水時は道路と用水路の境目がわからなくなる「人喰い用水路」での事故はたびたび報じられる。
さすがに今は無対策の用水路は少ないが、小さな反射板があるだけとか、広い間隔でポールが立っているだけとか、
他の地域ではなかなか考えられないような弱い対策である。それだけ数が多いんですよね。
茶屋町駅でバイクを畳んでマリンライナーに乗る。
昨日、下津井に行ったので時間に余裕があるということで四国まで足を伸ばすことにした。
瀬戸大橋というが島の上を通る高架橋を走る区間もけっこうある。
一番最初の櫃石島から坂出市なので、瀬戸大橋はほぼ全て坂出市内にある。
坂出駅で下車して瀬戸大橋記念館までバイクを走らせていく。けっこう距離はある。
ちょうど昼時だったのでうどんを食べる。讃岐うどんだなぁと思う。
瀬戸大橋の坂出側の根本は工業地帯である。後で知ったのだが、このあたりは元塩田らしい。
瀬戸大橋に近づくにつれ、高架橋の高さが気になってくる。この下を大きな船が通るので高いのである。
瀬戸大橋記念館では瀬戸大橋ができるまでのことが様々紹介されている。
最初の方に讃岐鉄道(後に国有化され、JR四国の原型となる)の設立時、塩飽諸島の島を橋台にして橋を架ければ霧などの影響なくどこでも行ける、
という現代の瀬戸大橋そのものの野望が語られたが、特に実現性はなかった。
連絡船で本州・四国間の鉄道ネットワークは結ばれ、これで一応はよかったのだが……
1955年、修学旅行生らを乗せた連絡船が沈没する大惨事が起きた。濃霧が原因の1つである。
これをきっかけとして本州・四国間の架橋計画が動き出した。これはけっこう有名な話。
いろいろルートは考えられたが 神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルート の3つに集約された。
この中でどれを優先するかという話があり、神戸・鳴門ルートを優先する案もあったようだが、
距離が短く費用面で安い児島・坂出ルートが優先され、当初から道路・鉄道併設で作られた。
瀬戸大橋は1本の橋では無く、複数の橋の組み合わせだが、それは島をまたぐごとに別の橋になってるのもあるけど、
記念館の目の前、与島との間にかかる橋も中央にある4Aアンカレイジを共用する2本の吊り橋である。
船の航路は備讃瀬戸北航路(西行)と南航路(東行)に分かれているのでここで2つの橋に分けたと。
橋を様々組み合わせた瀬戸大橋の経験を生かして、本四架橋最長の吊り橋、明石海峡大橋の建設に挑んだという経緯もあるらしい。
大変なのが橋台を海の中に置くことで、設置ケーソン工法というのが開発された。
造船所で作った箱を曳航して、そこに海水を注いで沈める。そこに粗骨材(石)を投げ入れて、モルタルを注入してコンクリートにする。
海水を注いだ後にモルタルを注ぐとモルタルは海水の下に沈み海水が排出されるらしい。
一見シンプルだが、大量のモルタルを海上で用意するのが大変で、専用のモルタルプラント船を造り、
そこにモルタルの材料を絶えず船で運ぶという大変な作業だったという。
あと、置く場所も海中でダイナマイトで発破して岩盤を出すというので、いろいろ工夫があったという。
去るときは宇多津に向かって走っていったので、宇多津駅から本州に戻る。
宇多津駅は路線図上は児島駅の隣だが、マリンライナーは短絡線で坂出へ向かうので、
ここから隣の児島駅に行くには特急に乗るか、坂出で折り返す必要がある。
直近は特急なのでサクッと特急に乗りましょう。児島までの乗車券・特急券を買って乗る。
チケットレス特急券よりも自由席特急券の方が安かったのでね。
児島に戻ってきてバイクを走らせてやってきたのは 児島学生服資料館、日本被服(ニッピ)の敷地の片隅にあるみたい。
一番最初が足袋の話から始まって驚くが、最初の学生服は足袋の生地を使っていたらしい。
もとは木綿栽培が盛んな土地だったことから木綿を利用した繊維製品の製造が行われるようになり、
まずは足袋、そこから学生服や作業着に発展していったという。作業着という側面では日本におけるジーンズ発祥の地として知られている。
学生服の材料が化学繊維主体となり、こうなると化学メーカーから布を買って……ということになる。
児島の学生服メーカーのポスターやらなんやら集めていて、その中には変形学生服のポスターなんてのも。
こういうのも1つの側面のようである。数多くの学生服メーカーが児島にはあったという。今でも多いんですけどね。
2階には学生服の試着コーナーがあって、グループで来てたらこれで写真撮りあったり楽しいのかもしれないが……
ちなみに資料館の前には店舗があって、近隣の学校の名前がずらりと。近所の人は工場門前の店に制服など買いに来るのだろう。
せっかくなのでこのまま玉野方面に海沿いを走っていくことに。よい景色だ。
途中で電動キックボードとすれ違って驚いたが。
玉野市というのは玉と宇野の合成地名である。玉は造船所の町で、三井E&Sの巨大な工場がある。
厳密に言うと三井E&Sは船用エンジンの製造などに注力し造船業から撤退、
ここで船を造っているのは三井E&Sから事業譲渡された三菱重工マリタイムシステムズである。
そこからさらに進むと宇野、ここは連絡船は発着した港町である。
瀬戸大橋ができてからも高松行きのフェリーが高頻度で運航され、瀬戸大橋線が止まってもフェリーが動いているときは、
振替輸送を利用するため、マリンライナーが宇野発着となりかつての連絡船の光景が蘇ることもあった。
しかし、高松航路がなくなり、今は小豆島・直島への航路が残るばかり。かなりローカルな港になった。
ここでバイクを畳んで再び茶屋町駅まで。またここからバイクで走って宿へ向かう。
まさかこの旅行中3回も茶屋町駅に来るとは。
大原美術館の案内にも茶屋町駅からバス・タクシーというアクセス手段はかいてあったから、
四国方面から倉敷市街へのアクセス手段としては真っ当ではあるんだろうけど。
まぁなかなかバイクがなければこうはならないかなという気もする。
そんなこんなで