元興寺と正倉院展と平城宮跡

今日は奈良におでかけ。

駅までバイク使うかとも考えたけど、帰るときには雨降りそうだし、

いろいろ課題もあると思い、歩いて駅まで。今まで通りである。


今回の奈良行き、どうするかといろいろ考えたのだが、

今回は奈良市街に留めておこうというのは決めていて、午前中は天気が持ちそうで、

そういえば元興寺って行ったことなかったなと思ったのである。

名前はなんぼでも知ってるのに行ったことなかったことには理由もあるのだが。

というわけで近鉄奈良駅で降りて、東向商店街~もちいどのセンター街~下御門商店街とアーケードの商店街を渡り歩く。

こうしてたどり着いたあたりが「ならまち」と呼ばれる元興寺旧境内である。


元興寺というのはもともと大きな寺だったのである。

平城遷都のときに飛鳥から引っ越してきた寺で、引越前は飛鳥寺という名前だった。

(この経緯から元興寺移転後、旧来からの飛鳥寺は本元興寺と名乗っていた時代がある)

ところが平安京に遷都した後から衰退が始まり、火事で建物が焼けても再建できず、跡地は宅地化していったという。

ところで平城京が都ではなくなった後、広大な平城京のほとんどは田畑に帰っていったが、

東大寺や興福寺の門前町としての意義はあり、その周辺の市街地は奈良町と呼ばれた。

その奈良町のコアエリアこそが元興寺旧境内なのである。


そういう経緯は知ってたのだが、道が細い昔ながらの住宅地という感じである。

ここからかつての大寺の姿を感じるのは到底不可能である。

その細い道をぐるぐる回ると「元興寺」と書かれた看板があった。

世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産であることを示す石碑がある。

拝観料600円、拝観料っていうか法輪館の観覧料みたいなもんだけど。

受け取ったパンフレットを見ると、広大な元興寺の地図の中で、ごく一部をマーキングして、現在の元興寺の範囲を示している。

こんなの詐欺だろと思うほどに一部しか残っていないのだが、この部分だけ残ったことにはそれなりの理由があるようだ。


残っている2つの建物はもともと元興寺の僧房だった。

それをかなり改築して極楽堂(本堂)、少し改築して禅室という具合に残っている。

どちらも国宝である。元になった建物は奈良時代からある上、飛鳥寺から移築された部材もあるのだという。

極楽堂の本尊は智光曼荼羅図、これが入った厨子が置かれている。

ちょっと拍子抜けという感もあるのだが、これで生き残ったのが今の元興寺である。

元興寺が衰退する中で、浄土信仰が流行、そこで注目されたのが智光曼荼羅図だったのだという。

そのため僧房を転用して曼荼羅を安置する建物を作って、元興寺極楽坊と呼ばれるようになった。

巨大な元興寺のごく一部門にすぎないが、ここだけは現代まで生き残れたのである。


法輪館に入るとまず目に入るのが五重小塔である。

奈良時代に作られたミニチュアの塔なのだが、実はこれ建造物として国宝指定されている。

ずっと建物内に安置されてきたので状態としてはよいらしい。

建物の中にある建造物ってのも変な気はするけど、中尊寺金色堂みたいなのもあるしな。

特別展ということで「内部を視る~文化財とX線~」という展示があった。

寺の収蔵庫らしからぬテーマだが、元興寺文化財研究所の活動紹介である。

元興寺文化財研究所は元興寺関係に限らず様々な文化財の研究を行っていて、

科学的な機器もいろいろあるが、その中でX線装置というのもあったのである。

錆だらけの出土品の鉄剣をX線撮影したら文字が出てきて、調べてみると金象嵌の文字が出てきたなど。

それにしても元興寺はなんでそんな研究所を持ってるんだ? と調べてみると、

1961年に大量の庶民信仰資料が出土したが、当時は出土品の保存手法も今ほど確立されておらず、

保存手法の開発など科学的なアプローチがかなり必要だったらしい。


さて、昼食を食べて奈良国立博物館へ。やはり正倉院展期間はいつもと比べものにならないほど人が多い。

本来、正倉院展は予約制だが奈良博メンバーシップカードを持っていると予約不要、

そんなわけでふらっと行けるのはだいぶ楽。30分ごとの枠の間を狙うように入った。

今回の目玉は 紫地鳳錦御軾(聖武天皇のひじおき)と碧瑠璃小尺、深緑瑠璃魚形といったガラス製品で、どちらも模造品にちなんだ展示である。

紫地鳳錦御軾は本物の状態もなかなかよいので、模造品もあんまり変わらない気がするが、

X線CTを元にした3Dモデルから内部構造を明らかにして模造を試みたわけである。

けっこう複雑な構造でマコモという植物の茎で全体を形作った後、くりぬいて綿を詰めたものの全体を綿で包んで、

すでに模造されていた錦で包んだというもので、それを本物を解体せずに解明するのがすごいなと。

ガラス製品は当時削り出していたらしいと、電動工具で削りまくったらしい。


ポスターに描かれている 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡 は銀に七宝をして金メッキ、金板を貼ってと、

安定性の高い材料ばかりだから、こういうのは昔からわりと見栄えしたんだろうなと思う。

あと、これは知っていたのが彩絵二十八足几で儀式用の机である。

なぜ知っていたかというと平城宮跡の役所の再現でこの形の机を置いていたからである。

奈良時代から現在まで埋まらず残っている貴重な品ということではあるのだが、

果たして宝物という形で現在まで伝来する物が当時を代表するものなのかというのはわりと謎である。

実際、用途としては供物を置くのに使われていたのではないかという話だし。


正倉院展期間は本館(なら仏像館)も人が多いが、珍しくも仏像以外の特集展示が。

1つは東大寺伝来の伎楽面、彫刻という意味では仏像と同ジャンルだが。

伎楽面はこうして伝来しているが、そもそも伎楽ってなんやねんというのは謎が多いらしい。

もう1つ「聖武天皇の大嘗祭木簡」、これはどうしても正倉院展にぶつけたかったネタだろう。

本館で考古資料を見ることなんてまずあることではない。

平城宮跡からの出土品で奈良文化財研究所が発掘したものなのだが、

同じ国立文化財機構の組織であり、平城宮跡資料館の出張展示のような意味合いがある。


と言われれば平城宮跡に行くしかないね。奈良公園から平城宮跡に行くにはぐるっとバスだね。

と、大仏殿前駐車場にいくと今日のぐるっとバス大宮通りルートの運行ルートは、

……県庁前→大仏殿前→春日大社→県庁前→朱雀門ひろば→西大寺駅 というルートらしく、

大仏殿前から乗ると春日大社に一旦向かってしまうらしい。

(この期間の休日は大仏殿前での折り返しになり春日大社へ向かわないのだが)

そこで気づいたのだが「奈良春日野国際フォーラム甍前」バス停へ行けば、

さっき春日大社に向かって走っていったバスに乗れるのではないかと公園を突っ切って向かうと、目論見通りにバスに乗れた。

結論から言えば博物館から県庁前に行った方がよかったですね。


多分、奈良公園~平城宮跡を移動するならぐるっとバスにかなうものはないと思う。

ただ、朱雀門から平城宮跡資料館はかなりの距離がある。

復原建物が見える以外はただの原っぱを突き進んでやっと到着した。

特集展示の名前は「聖武天皇が即位したとき。―聖武天皇即位1300年記念―」と、

聖武天皇の即位時の大嘗祭に使った品々に付いていた木札が多く並んでいた。

なぜか備中の地名の書かれた札が大量に見つかっており、これはわりと謎らしい。

ちなみに令和の大嘗祭で各都道府県から特色ある品が集められたことは以前紹介している。

大嘗祭はなにが特別か

大仏ができる原因でもあったけど、疫病の蔓延に対して燃灯供養をしたようで、

それにまつわる出土品もあった。植物油は当時としては高級品だったらしい。

その聖武天皇の足跡が正倉院に多く残されていることは知っての通りである。


そんなわけで西大寺駅から帰ったのだった。

前もこのルートで西大寺から帰ったな。わりと鉄板かもしれんね。