本渡から牛深までキリシタンの足跡を追う

昨日も大概移動距離は長かったが、今日も長い。

今日は本渡から天草下島の南端、牛深まで移動するのだが、問題は2つあって遠いことと勾配である。

まっすぐ行くなら国道266号線を走れば良いが、これはアップダウンが激しい。

そこであらかじめ検討していたのだが途中までは県道26号本渡牛深線を走る。

名前の通り、本渡と牛深を結ぶが海岸線に沿って走る点が国道と異なり、道幅が細い区間もある。

海岸線に沿って走るということは勾配は控えめである。海岸線にはみどころも多々あるはず。


その前に本渡で見ておくべきところがあるので、やってきたのが殉教公園である。

城山公園ともいうし、こちらの方が正式な名前のようである。

その名前が示すように元々ここには本渡城があった。

島原の乱のとき、本渡でも争いがありひどい犠牲が出たようである。このことを示す「殉教戦千人塚」が移設されている。

で、ここには天草キリシタン館があるのだが……休館日じゃないか。

まさかの火曜休館だった。それで心配になって調べたが次の目的地は事前の調査通りちゃんとやっているよう。

よくわからないけど天草市の施設の中でも休館日を散らしているようだ。


というわけで本渡を出て、冒頭書いたように海岸線沿いに進んでいく。

基本的に天草は離島っぽくはないが、海岸線が入り組んだ半島を走っているような感覚である。

のんびり走っていると「はまぼう群生地」と書かれた看板がある。黄色い花が見える。

はまぼう は汽水域に生息する低木で、河川改修などの影響で生息域が減っているようである。

そんな中で天草市新和町の はまぼう群生地は規模が大きいものとして知られているようである。

ちょうどよかったですね。こういう発見はバイクで走っているからこそである。

まだしばらく進んでいくと、岸壁にタラップとプレハブ小屋があり、立ち番をする人もいた。

これは中田港のフェリー乗り場で、ここから長島の諸浦港への船が運航されている。

簡素な港で、ドライブスルーできっぷを買うのか? と思ったのだが、実は道路の向かいにきっぷ売り場があったらしい。

そんなこんなで宮野河内まで海岸線を走って、ここからは山越えの道である。

いろいろ考えたのだが、これが電池消費がもっとも少ないのではないかと。急坂は押し歩きで節約して。

こうして河浦にたどり着いた。デイリーヤマザキでパンを買って昼食にした。

正真正銘のコンビニがあるのも離島らしからぬ感じである。天草には他のチェーンもあるがデイリーヤマザキが多い印象である。


で、ここにやってきたのは 天草コレジヨ館 のためである。

かつて河浦には天草コレジヨという神学校があった。(河浦にあったという明確な文献が見つかったのは近年のことらしい)

島原にあったのを目のつきにくい天草に移転してきた経緯があるという。

ただ、キリスト教迫害の歴史からして、ここに当地に残っている物というのはそう多くない。

天正少年使節団が持ち帰ったという 印刷機、楽器、天草で作られた 竹のパイプオルガン など文献から再現されている。

模造なのをよいことに演奏もしていて、ちょうど遠足の中学生のためか当地で演奏している人たちが来ていたので、演奏を聴かせてもらった。

なかなか当時から残っている物は少ないが、天草で印刷された本がヨーロッパに渡って残っているのがあって、

そのコピーがいくつか展示されていたが、これらの文献によりヨーロッパに日本のことが伝わった側面もあるようだ。

中には日本語のものも。ひらがな の活字を作り、それで印刷したそうで、教えてもらったが ひらがな の向きを間違えた誤植もあり、活版印刷で作られたことがわかる。

日本でのキリスト教迫害の歴史も伝わっており、その文献の中に河浦にコレジヨがあったことが書かれていたと。


ここら辺に来ると案内が増えてくるが天草にも世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産がある。

それが浦津集落である。行くのは難しいと思っていたが平坦な道を7kmほど。

なんとか持つかと走って行くことに。ただ、後々計算してみるとこれは間違いだったような気がする。

山をトンネルで抜けることもあり概ね平坦ではあるのだけど、距離はそこそこある。

崎津というのはキリスト教が禁止されていた時代にも、潜伏キリシタンがかなりいた地域である。

1805年、天草崩れという潜伏キリシタンが大量に見つかる事件が発生した。

みつかった原因はクリスマスの儀礼のために牛を屠殺していたため。なんと崎津では住民の7割も潜伏キリシタンだったという。

どうも表向きは神社氏子や寺の檀家となっているが、水方という指導者を中心としてキリスト教の儀礼を続けるグループがあったらしい。

みなと館という旅館を改装した展示施設があり、そこにはマリア像が見えるアワビ貝とか、大天使ミカエルっぽい像とかなんとでも言い訳できそうなものがあった。

キリスト教といいつつも自然信仰のような一面もあったようで、天草崩れのときも大目に見てもらえたのはそういうことなのだろう。


明治時代になりキリスト教が公に認められるようになり、崎津にも教会が作られた。かつて絵踏が行われていた庄屋跡である。

儀礼を行っていなければ入って見学して良いよう。ステンドグラスなどはいかにも教会建築だが、畳が敷かれているのは異質である。

ちなみに潜伏キリシタンの中にはカトリック教会に合流しなかったものもいたそう。

このことは集落の入口にある道の駅のガイダンス施設で紹介されていたのだが、

元々、神道・仏教・キリスト教が融合したような信仰だったため、神棚の破棄などに抵抗を示すものがいたよう。

そのため従来の信仰を続ける人も一部にはいたそう。ただ、熊本県内(天草)ではすでに失われたそう。


ところでこの崎津集落は重要文化財や史跡があるわけではない。

国内の保護制度としては重要文化的景観「天草市﨑津・今富の文化的景観」が根拠となっている。

この重要文化的景観というのは漁村集落の景観で、潜伏キリシタンの信仰を表すものとはなかなか思えないところはある。

潜伏キリシタンが作った漁村ということで、世界遺産の構成要素としてはよいことになっているようだ。

潜伏キリシタンの歴史の始まり(島原の乱)を表す原城跡、終わり(信徒発見)を表す大浦天主堂はわかりやすいが、

本当に重要なのはその間で、でも潜伏していたから建造物などが残っていることってそうないんですよね。

そんな中で潜伏キリシタンの痕跡が残る集落を集めたわけだが、それが重要文化的景観の根拠かというとこれは怪しい。

でもこの世界遺産はかなりユネスコでの評価は高かったらしい。よくわからん話である。


さて、ここから牛深に向かうわけだが、距離を見て、これは電池足りんだろうと。

電池が完全に切れてしまうとライトも付かなくなり、坂を下ることすらできなくなってしまう。

ここから牛深までは1つ山を越えなければならない。なんとか押し歩きなどで節約しないといけない。

なんとか牛深の市街地まで下り降りることはできたのだが、さすがに71kmで電池切れになってしまった。

電池2本で71kmというのは距離としてはこれまででは走った方である。ただ2~3kmぐらい足りなかった。

しかも泊まる宿が民宿みたいなところでチェックイン時間が18時になっていて、なんとか間に合わせたい。

そんなわけで押し歩きで早歩き、汗だくになりながら滑り込むように宿に入った。

崎津にさえいかなければ、時間も余裕はあったし、電池も持っただろうけど……

でも、崎津に行ったこと自体はよかったかなと思う。やはりそれだけの価値がある空間ではないか。


というわけで島原・天草の旅も明日には完結である。

バイクの走行距離の兼ね合いで天草の1箇所に留まり周遊というのは難しく、本渡と牛深を渡り歩いたわけだが、

牛深は言うまでもなく、長島に渡る船が出るところである。

明日は最終的には出水、すなわち九州の本土に戻ることになる。

やはりこのバイクには過酷な旅だったが、多くの発見があったなと思う。